2016/10/15日-11/3 川崎重工創立120周年記念展

川崎重工の創立120周年を記念して、レストアした「飛燕(II型改)」を神戸ポートターミナルにて展示公開するというイベント。M好さんが遠路はるばる参加されてきました。

川崎 ハ140


飛燕の液冷倒立V型12気筒エンジンを左前から見たところです。手前のシャフトがプロペラに繋がります。

倒立なのでV型というよりハの字ですね。エンジンオイルが燃焼室内に浸入してしまうと思うのですが、エンジン始動時に問題にならなかったのでしょうか。空冷星型エンジンで下のヘッドを点検で空けるとドバッとオイルがこぼれた、という話を聞いたことがあります。空冷に比べれば液冷の方がピストンとシリンダーのクリアランスは小さいとはいえ、隙間があればオイルは落ちてきたと思います。そこまでして倒立にするメリットは、重心が下がることと、操縦席から視界確保だそうです。確かに大きいシリンダヘッドが上にあるとパイロットからは機首の下の方の視界がだいぶ妨げられますね。

周辺のパイプワークが、オリジナルのDB601より乱雑で、この辺りにもドイツとの工業力の差を感じます。

外側の排気ポートは塞がれていますが、1つの孔に3つのボルトで排気管が繋がっていたと思われます。
【BY M好】

エンジンを右前から見たところです。
【BY M好】

エンジンを真横から見たところです。6気筒分の長さですから、長いエンジンですね。全長は1,722mmだそうですから大人の身長と同じくらい。クランクも長くなって加工精度が求められるところです。

排気量は33,929cc、34リットル!フェラーリやランボルギーニの12気筒のほぼ8倍です。
【BY M好】

床に鏡を置いて、シリンダーヘッドを良く見えるようにという計らいです。すばらしい。

Vバンクの間を吸気系が挟まっています。手前の丸い孔は吸気のパイプです。34リットルのエンジンですからパイプ径も大きいです。
【BY M好】

第2次大戦中の傑作航空エンジンのひとつ、ダイムラー・ベンツ製DB601の生産ライセンスを大日本帝国陸軍が購入し、川崎航空機に造らせたものが、「ハ40」で、上の画像のエンジンはその出力向上版、「ハ140」です。

生産困難だったDB601エンジン

ドイツからDB601の図面を手に入れたというものの、その生産は当時の日本の工業力では手に余るものでした。機械加工の技術、冶金技術、原材料の調達、工員の技術レベル(日本の熟練工の技術は世界的にも卓越していましたが、兵隊にとられてしまっていました!)のほか、点火プラグ、ベアリング、ガソリン、オイルといったエンジン周辺要素など、なにからなにまでものが、DBエンジンが必要とするレベルに達していなかったのです。

特にV12の長大なクランクシャフトは、造り慣れた空冷星型エンジンのものよりはるかに高い精度を要し、生産ラインでは歩留まりの悪さに悩まされ、なんとかラインを出たエンジンも戦場で、クランクシャフトの焼付き、ひどいときには折損というトラブルに悩まされ続けたのです。この問題は解決することはありませんでした。

製造ライセンスの二重購入

有名な逸話なのですが、すでに日本海軍がDB600および601の生産ライセンスを購入していたにもかかわらず、海軍と犬猿の仲であった陸軍は海軍と合流することなく、独自に同じライセンスをダイムラーベンツから購入しています。ヒトラーはこの味方同志の反目をあざ笑ったといわれています。

ヒトラー云々は与太話、重複ライセンスにはドイツ側に理由があった、とする論調も世にあるようですが、旧軍の大人げない確執をなかったことにしたい歴史修正主義のように思われます。というのも、DB601は、海軍では愛知時計電機で「熱田(アツタ)」として形になったのですが、川崎と愛知は、困難な開発の中、一貫して少しの情報も共有しなかったからです。なお、川崎製よりも愛知製の方が品質的にマシとされていますが、これは海軍はクランクシャフトの生産に、貴重なニッケルの使用を許したゆえとされています。

三式戦闘機「飛燕」

上記「ハ40」および「ハ140」エンジンを搭載した機体が三式戦闘機「飛燕」ですが、米軍は「Tony」というコードネームを与えていました。日本機には珍しい水冷エンジンゆえの機体シルエットにイタリア機(マッキ C.202)を連想したのか、イタリア系移民の典型的とされる名前を付けています。ちなみに、そのマッキ C.202に積まれたモンソーネ・エンジン(RA 1000 RC.41)も、DB601のラインセンスを購入したイタリアが、アルファロメオに生産を担当させたものです。

イタリア製品(およびイタリア系移民の仕事)の質を揶揄したアメリカンジョークとして、「FIAT」は、”Fix It Again, Tony” の略だ、というのがありますが、当時の日本からしてみれば、イタリアと言えば仰ぎ見る高さにあったと言っていいでしょう。日本と同様、DB601の生産は一筋縄とはいかなかったものの、日本よりはるかにマシなレベルでモノにしています。飛燕を見た米軍が、「Hans」(ドイツ人男子の典型的名称)と呼ばなかったことは、飛燕の出来を見抜いていたからかもしれません(笑)

五式戦の誕生の呼び水となる

そんな状況の中、ただでさえまともに動かない1000馬力級エンジン(ハ40)を、1500馬力にスープアップさせる(ハ140)ことになったのだから、現場はたまりません。歩留まりの悪さはさらに悪化。エンジンは川崎の明石工場で、機体は岐阜工場で造られていましたが、岐阜工場ではエンジン待ちの「首なし機体」ばかりが工場敷地内に並んでしまうという始末でありました。

仕様がないので、軍の手引きで、V12の代わりに手持ちの空冷星型14気筒エンジン(金星62型)を積んでみたところ、もともと機体設計は良かったのでしょう、開発期間はわずか3か月という突貫作業であったにもかかわらず高性能を示し、陸軍最後の戦闘機、五式戦として制式採用されるに至ります。飛燕とし生産されたおよそ3,150機のうち275機程度が五式戦に回されたといわれています。苦肉の策からの光明でありましたが、成果は焼け石に水、といったところでしょう。

飛燕と関連機との比較

飛燕の最大の魅力は、アメリカ人もそう思ったように、そのバタ臭い見た目でしょう。DB601エンジンを通して飛燕と関係のある機体を画像で比較してみたいと思います。

メッサーシュミット Bf 109 E-4
DB 601 エンジンを積むドイツ軍の代表的戦闘機。日本でいえば零戦52型的立場。

川崎 K61 飛燕
日本機には珍しいファストバック式キャノピー形状にBf 109の影響が感じられます。機体下の出っ張りはラジエターダクト。

川崎 キ100 (五式戦) 甲(上)/ 乙(下)
飛燕譲りのファストバック型キャノピーは、視界の問題か、まもなく水滴型に変更されます。ラジエターダクトは当然、除去されています。

マッキ C.202 フォルゴーレ プロトタイプ(上)/ 量産型(下)
言うほど飛燕に似ているように思われません。実はC.202の機体は空冷機からの流用なのです。(飛燕、五式戦の関係の逆になります)プロトタイプが量産機とされる過程で後方視界のための窓が廃されています。

マッキ C.200 サエッタ 前(上)/ 後(下)
サエッタの機体を細く、長くし、水冷V12エンジンを積んだものが、上のフォルゴーレ。イタリアのパイロットはきわめて保守的で、当初は複葉機すら好む勢力が強かったといいます。彼らの「風を感じて速度感をつかみたい」という前時代的要望に応える形で、後期型ではキャノピーを開放式にするという進化に逆行した改修が行われています。

空技廠 D4Y 彗星 水冷(上) / 空冷(下)
飛燕のライバル(笑)、「アツタ」を積む海軍機が「彗星」です。米軍のコードネームは「Judy」という女性名。川崎の「ハ140」同様、愛知でも「アツタ」の生産は困難を極め、多数の「首無し機」がヤードに並んでしまいます。空冷エンジン(金星62型)への換装の決断は飛燕より先で、その後も水冷エンジン版は空冷版に並行して生産され続けました。

愛知 M6A 晴嵐(上) / 南山(下)
アツタを積む海軍機で紹介しておきたいのが、用途も構造も極めて特殊な「晴嵐」です。浮上した潜水艦からカタパルトで射出するという、世界でも他にない運用が想定されていました。狭い潜水艦で運ぶための折りたたみ構造など、極めて凝った作りを持ち、1機で零戦数十機分のコストがかかったと言われています。フロートの代わりに車輪を付けたものが、南山(晴嵐改)です。晴嵐および南山は、大戦末期にわずか28機だけが生産され、実戦に供される前に終戦を迎えています。

過給機

いわゆるスーパーチャージャーです。
オリジナルの過給機は失われていて、代りにDB603の過給機が参考に展示されていました。DB603はDB601の拡大版で爆撃機などに使われたエンジンです。
【BY M好】

空気流入方向からの写真です。
空気取入口から入った空気は、丸い網を通しで過給機内に入ります。ここでタービンの回転によって圧縮され、アンモナイトみたいな形のハウジングから出て行きます。出て行った圧縮空気は、エンジンのVバンクの間の吸気のパイプからシリンダーに送り込まれます。

なおハ140はインジェクション(燃料直接噴射ポンプ式)ですから、キャブレター(気化器)と違って、急激な旋回や宙返りでもガソリンは確実に送り続けられ、空中戦での優位性になっていたようです。
【2018/02/17 追記 by M好】

代替品では、あんまりだということでしょうか。今回、図面から作製したレプリカも展示されていました。

会場には実際にレプリカを作った方がガイドとしていらしていて、説明をしてくださいました。

それによるとタービンの回転数は最大毎分3万回転!過給機はエンジン左側面後部に貼り付くように設置されていたそうです。構造はさらに複雑で、気圧に合せてタービンの回転数を変えられるように流体継手(フルカン継手)が設けられ、気圧計と連動して継手に送るオイルの流量をコントロールしていたようです。

スーパーチャージャーですからエンジンの軸出力でタービンを回しますが、エンジンのクランクの回転方向とタービンの回転方向は直交しており、かさ歯車で動力を伝達していて、と聞いて「ベベルギアですね」と思わず突っ込みを入れてしまいました。ガイドさんすみませんでした。

富士山の麓の『河口湖自動車博物館・飛行館』 http://www.car-airmuseum.com/ にはDB601を海軍が国産化した愛知航空機製のアツタ21型が展示されています。エンジン本体に過給機が取り付けられていますので、その仕組みがよく分かります。またこの博物館にはアツタ21型を分解した展示もあり、エンジンの内部構造やよく話題になるベアリングの様子がよく分かります。
【2018/02/17 追記 by M好】

ラジエター

ラジエーターもオリジナルは失われていて、今回、残されていた断片的な図面から作製したそうです。

3つのブロックに分かれていて、両側がエンジン冷却水の冷却、中央はオイルクーラーです。区画は分かれているとはいえ、適温が違う流体が接しているわけですし、後で説明するようにラジエータに当る風量の調整ルーバーは1つですから、2種類の冷却液をそれぞれの適温に保つのは困難だったという記事を読んだことがあります。

エンジン自体の作製が困難を極めた話は有名ですが、まともに出来上がったエンジンも冷却が適切でなければその持てる性能を十分に発揮できません。
【2018/02/17 追記 by M好】

ラジエーターを前から見た写真です。ハニカム構造が良く分かります。
【2018/02/17 追記 by M好】

ラジエーターは機体の下部中央に埋め込まれていました。中ほどのルーバーでラジエータに当る風量を調整します。
【2018/02/17 追記 by M好】

機体全体が分かる写真です。
ネックストラップを掛けた方は、今回の機体レストアのプロジェクトリーダーさんです。会場で質問攻めにあっていました。
なおこの飛燕のレストアは、機体とエンジンとそれぞれ別のプロジェクトとして活動したそうです。
【2018/02/17 追記 by M好】

右翼の前にあるのはご存知KawasakiのNinja H2です。スーパーチャージャー仲間ということで一緒に展示されていました。事実、先ほどのスーパーチャージャーのレプリカは、このオートバイのスーパーチャージャーの開発に携わった方々が作ったそうです。
【2018/02/17 追記 by M好】

排気管の様子がよく分かると思います。光沢のあるプレートは複製品で、鈍い色のところはオリジナルだそうです。意外にオリジナルが多くて保管状態がよかったことが分かります。
【2018/02/17 追記 by M好】

水平尾翼や垂直尾翼のアップです。方向舵や昇降舵など動翼は新しいジュラルミンが貼られています。縦に長い胴体の断面が分かると思います。

飛燕は後に星型エンジンを搭載して五式戦になりますが、機体の設計はこのままでした。スマートな水冷エンジン用のボディに星型のエンジンを載せると当然エンジン部分と機体部分に段差ができますが、五式戦はドイツのフォッケウルフFw190を参考に段差部分に排気管を配して、エンジンの排気を使ってこの段差部分に生じる渦を消したそうです。
【2018/02/17 追記 by M好】

尾輪のアップです。飛燕の尾輪は固定で引き込みしないタイプです。
【2018/02/17 追記 by M好】

左右のスパンが長く、力強い感のある主脚です。
【2018/02/17 追記 by M好】

キャノピーの可動部や胴体と主翼の付け根の処理がよく分かると思います。
【2018/02/17 追記 by M好】

プロペラスピナーがきっちりはまっています。こういうところが飛燕は美しいです。
【2018/02/17 追記 by M好】

展示会場には2階もあって、2階からだと全体像をカメラに収めることができます。周囲の見学者やオートバイから機体の大きさがイメージできると思います。

飛燕は翼のアスペクト比が7.2と同時期の戦闘機としては格段に大きい(翼が細長い)です。参考までに隼は6.0、零戦は、6.4です。

アスペクト比が大きいと、上昇力や航続距離が長くなるなるなどメリットはありますが、反面、格闘戦性能が落ちる、射撃の安定が落ちるなどのデメリットがあります。
【2018/02/17 追記 by M好】

機首の武装は、20mm機関砲です。

武装についていうと飛燕は翼に12.7mmを搭載しています。これはホ103、アメリカのブローニングAN/M2航空機関銃(MG53-2)のコピーですが、初期に故障が多くまたテイ弾性能がよくなかったそうです。松本零士さんの戦場漫画シリーズに飛燕の機関砲の筒内爆発のことが載っていますね。もっとも作品の中では現地の敵スパイによる工作によって意図的に起こされています。

さて12.7mmの破壊力不足を感じていた軍はさらに強力な20mmの搭載を要求します。しかし翼内に20mmを収めるには翼の設計をやり直す必要があり、機首に装備となりました。機首に機銃を装備する場合、銃弾によってプロペラが破損する恐れがあり、そのためプロペラの回転と機銃の発射タイミングを調整するプロペラ同調装置を装備しています。この技術自体は第一次大戦時に開発をされていますが、7.7mmや12.7mmに比べれば20mmの破壊力は格段ですから、この同調装置の設計は慎重が要求されたようです。

現代であればプロペラ軸にセンサーを取り付けて、そこからの電気信号をピックアップして、機関砲のトリガーを調整するところですが、何せ70年以上も前の日本の工業力かつ当時の機関砲は油圧制御ですからそういったことはできませんでした。エンジンにカムを付けてショックを拾い、それを磁石で電気信号に変えて機関砲発射のタイマーリレーに繋いで制御したようです。20mm砲ともなると遊底が重くしかも戦闘中の戦闘機には大きなGがかかりますから、遊底の動きがさらに鈍くなります。それも考慮して発射タイミングを調整するのは相当に大変だったようです。
【2018/02/17 追記 by M好】

写真では内部構造は分かりませんが、飛燕の翼桁は、コの字型でそれを二重化した頑丈なものだったようです。そのため急降下の上限速度がそれまでの隼や零戦が650km/hに対して、850km/hまで可能でした。

格闘戦を苦手とする米軍機は隼や零戦が相手であれば急降下で振り切れましたが、飛燕の場合はそうはできなかったようです。もっとも戦闘機同士での戦闘が格闘戦から一撃離脱に変わって来ましたら、そうした優位性もあまり活かされなかったかもしれません。
【2018/02/17 追記 by M好】

計器盤

計器はリペイントされていますが、物自体は当時のままだそうです。
【2018/02/17 追記 by M好】

配電盤

これもリペイントされ復元されたものです。
【2018/02/17 追記 by M好】

防弾板

おそらく操縦席の後ろに取り付けた防弾板です。
飛燕は燃料タンクにもゴムを貼った防弾装備がされ、防弾性能が日本機の中では高かったようです。

日本の戦闘機は軽量化のために防弾装置を付けず、とかく被弾に弱かったとされますが、大戦後期の飛燕や疾風は防弾性能が向上し、特に疾風は米軍機の12.7mmに被弾しても容易には落ちなかったという報告がありました。
【2018/02/17 追記 by M好】

GPz750 turbo

Ninja H2のご先祖様ということでしょうか。展示室の脇にGPz750turboが展示してありました。GPzシリーズのカウルからタンク、テールに至る流れるようなラインが今でも新鮮です。

80年代に日本の各オートバイメーカーはターボ付きのオートバイを開発市販しましたが、その後は作られませんでした。二次曲線的にパワーが上がるターボエンジンはオートバイには合わなかったのかもしれません。
【2018/02/17 追記 by M好】

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