ケン・スズキからの手紙

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軽井沢 ペンション Silverstone 滞在記

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皆さま初めまして、永野と申します。まず簡単に自己紹介をします。

■ 1970年生まれの54才。
■ 宮崎県出身、東京都在住。
■ 16才よりモトクロスを始め、20代はMFJ九州選手権を転戦し国際B級まで昇格する
■ サラリーマンでA級を目指すのは困難と感じ、30才でレース活動を辞める。
■ 40代でロードバイクに乗り始め、初のロードバイクが1996年式の900SS。それをきっかけにパワーハウスにお世話になる。
■ モトクロスライディングは現在も継続中。

昨年末にPHMCに訪れた際、10月に軽井沢の「ペンション Silverstone」に初訪問したことを話すと、大いにウケて、ブログで紹介したいと、滞在記の寄稿を依頼されましたので、ここに書かせていただきます。

ケン・鈴木さんが営まれている「ペンション Silverstone」は皆さんご存知かと思います。僕もずっと以前から気にもなっていたのですが、なかなか行く機会がなく過ごしておりました。そんなある日、中尾省吾さんが発行されている「SOBマガジン」(https://sob.base.shop/)の28号(2024年9月1日発売)で、Silverstone & ケン・鈴木さんが特集されており、

読んでみるとケンさんはすでに83才!「いつまでできるか・・・」と書かれており、これは行かねば!と往訪を決意しました。

ちょうど10月に、北軽井沢の浅間火山レース跡地で友人が主催しているオフロードバイクイベント「アサマファンライド」があり、それに参加する際に宿泊することにしました。

さっそく予約をしなくてはなりません。予約は電話オンリー。ちょっと緊張しますね。

電話をするとケンさんご本人が出られ、簡単な質問に答えた後、無事に予約終了。(編注:電話面接があるのです(笑))

アサマファンライドを無事終了し、温泉に入ってから軽井沢へ下ります。

道に迷うことなく5時半くらいに到着。

玄関に行くとケンさんとKR500がお出迎え。

「18時から夕食ですので、食堂へ下りてきてください」と言われ、まずは宿泊部屋へ向かいますが、途中の階段や通路、いたるところ当時のGPの写真や、カワサキ時代の写真が飾られており、どこを見ても飽きがきません。

ケン・鈴木さんは、トーハツ、ブリヂストンのレース部門を経て、イタリアに渡りピアッジョに入社。1973年にカワサキにスカウトされて、英国を基地とするWGPワークスチームの監督に就任されています。

部屋にはシンプルなベッドが4つ配置されており、くつろげるスペースです。

さて、お待ちかねの夕食です。失礼ながら、あまり期待はしていなかったのでですが、これが美味しくて!!

[ つづく ]

オマケ

(以下抜粋)
ペンションを始める前の仕事
トーハツを経て、ブリジストンサイクル工業(BS)
60年前にさかのぼります。その頃私は埼玉県上尾市で、6畳一間ガス台、流し台以外は何も無い部屋で、トイレも隣と共同、まわりは林や畑ばかり、一ケ月家賃は4000円のアパートに住んでいました。

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私が仕事で50cc、90cc、125ccのモトクロスで他社を圧倒する成績を出し、仕事は大変でしたがやりがいを感じていた頃、突然会社がオートバイ生産中止し、レース活動も中止となり、私に「BSタイヤの設計はどうか?給料も上がり、職場も東京なので通勤も出来るから」と云ってきました。

川崎重工でも、当時技術部長だった高橋徹郎さんから電話がありチーム全部(開発、ライダー、メカニック)で来てほしいと誘われましたが、そんな時イタリアのピアッジョとフィアットが人材を集めている事を知り、レース屋として海外に興味があり、英語も勉強していたので、そこに応募してみました。入社の条件が非常に良かったので、沢山の人が受験しましたがスペイン人の神父フラガさんの助けもあり、私はイタリアに行く事になりました。

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1981年はマシンも良くなり、ライダーもマシンに慣れてきて、シーズン後半のGP4戦は他社と比較しても、全く互角に戦えるようになり、結果もついてきました。
1981年のマシーンをベースに改良を加えれば、1982年は必ず良い結果が残せると、本社に何回も報告書を出していました。
K.バリントンと私は希望を持って1982年1月末に帰国しました。
帰ってきて驚きました。1981年のマシーンとは全く異なるマシーンが用意されていて、テストもまだだし、部品もそろわず、2月中句に組み上がり、下旬に富士スピードウエイで、テスト走行し、すぐにイギリスに発送予定だとか。
K.バリントンと私は大きなショックと絶望感で口もきけませんでした。
K.バリントンは怒って「こんな寒い富士スピードウェイでマシーンのテストなんか出来るわけがない。テストもしないでGP参加するなんてクレイジーだ」と私に云いました。
私もその通りだと思いました。他社は9~10月頃には次の年のマシーンを作り、日本で十分テストをして、冬にはオーストラリアや南米で再度テストをして南米のGP第一線に向かうのが普通でした。

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シーズンが始まり、レース結果は思った通りでした。それでもチームは苦労して戦っている時、7月中頃突然本社は来年のレース活動中止を発表、私に全く相談も無しに・・・。

チームの最終戦はイギリスのブランズハッチレース場でK.バリントンは優勝、表彰台には私もメカニックも全員上がり、レースアナウンサーの「チームカワサキ最後のレース、ありがとうそしてさようなら」の合図で観客が総立ちになり拍手で見送られ、シーズンを終了することが出来ました。
私の考えを全く無視して、私に相談も無く、新型マシーンを作り、突然シーズン途中でレース活動中止を発表、私達は500ccクラスで世界チャンピオンになる事を目標にしてきたのに・・・。
私はそんな会社にとどまる理由もなく、シーズン終了後イギリスのワークショップの残務整理をして、メカニックの次の仕事を決めて、K.バリントンには申し訳なかったのですが、帰国して、非常に怒りを持って、その日に会社を退職しました。

「将来の仕事はペンションも良いかな」と考えていたのも、急にペンションを始める事になった理由です。

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シルバーストンも40年になりますが、ビジネス的には全く成功しているとは思いませんが、上記のような多くのお客様に支えられて来て、今はペンションをやってきて本当に良かったと思っています。
私も82才、紀子75才で、いつまで続けられるかわかりませんが出来るだけ・・・・です。

あまり笑わないでください。
多分皆様だって・・・。
(抜粋おわり)

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