2019/12/03 Dirt Track Party (1/2)

川越の「オフロードビレッジ」で開催された「ダートトラックパーティ」に参加されたH特派員のお誘いで会を見物してきましたので、レポートいたします。

RZ250/350 dirt

このバイクを見て、「あの」バイクを思い出さずにはいられません。そう、アレですよ、アレ。XS650のパワー不足にフラストレーションを溜めていたケニー・ロバーツの前に現れたモンスター・・・

1975 YAMAHA TZ750 Miler

そう、TZ750エンジンを積んだフラットトラッカーです!

TZ750エンジンをダートに使うというアイデアは、USヤマハにフレームを供給していた「チャンピオン」のオーナー、「ダグ・シャワルマ」の発案でした。

1974 TZ750

1975年初頭、ヤマハ・カナダ所属のライダー「スティーブ・ベーカー」がヤボ用でチャピオンの工場に立ち寄ります。シャワルマはベーカーのトランスポート・バンにTZ750(当然ロードレース用の)が積まれているのに気づくや、その場でエンジンまわりの採寸を行ったのでした。

TZ750以前の試み

実のところ、多気筒ハイパワーエンジンをダートに持ち込むという発想は、決して目新しいものではありません。

「ロン・グラント」チューンのGT750用3気筒を積む一連のフラットトラッカーがすでにあり・・・

GT750 – #24Z Pat Hennen

GT750 – #45Y Mike Renslow

GT750 – #52 Ronnie Rall

バーチカルツインで一時代を築いたトライアンフ/BSAは、日本製4気筒に対抗して並列3気筒を出すや、それでフラットトラックレーサーを製作しています。

1969 BSA Rcoket3 – #38X David Aldana

1969 BSA Rcoket3 – #41T Yvon Duhamel

1970 Triumph Trident – #11Y Don Castro / #9 Gary Nixon

すでにチャンピオンでもCB750エンジン用フレームや、

CB750 – #31Z Rick Hocking

CB750 – #45Y Mike Renslow

「アーブ・カネモト」の依頼でカワサキ3気筒用フレームを製作しており、

1974 H2R – #9 Gary Nixon

1975 H2R – #11 Don Casteo

1975 H2R – #19 Scott Brelsford

TZ750エンジンを見て、それ用のフレームを作ろうと思うのは、もはや既定路線であったといえましょう。

1975/06/25 Ascot(CA)Half Mile Race

シャワルマは、完成したTZ750エンジンのモンスター・トラッカーをヤマハに売り込むにあたり、まずアスコット・ハーフマイルレースに「リック・ホッキング」を乗せ、出走させています。

リックは、見事ファステストタイムを叩き出し、3位入賞を果たしました。

ライバルXR750に対してXS650のパワー不足に悩んでいたUSヤマハは、アスコットの結果を見て、「ケニー・ロバーツ」、「スティーブ・ベイカー」、「スキップ・アクスランド」、「ランディ・クリーク」ら契約ライダーへの供給を決定します。

1975/08/23 Indianapolis(IN)Mile Race

デビュー戦は、8月のインディ・マイルレースで、120馬力を超す2ストロークの唐突なパワー特性はダートには不向きとの下馬評が大半を占めていました。

インディは25ラップのナイトレース。

ラスト1周を残したところで、ケニーは、ハーレーXR750駆る #62「コーキー・キーナー」、#65「ジェイ・スプリングスティーン」に次ぐ3位に着けていました。(青矢印部がケニーで、結構、引き離されています)

150mph(240km/h)というXR750より25mph(40km/h)は速い最高速をもってして、最後のストレートで前を行く2人をゴボウ抜きにします。

ゴール直前、ギリギリのタイミングでした。

デビューウイン!!

レース後、ケニーはT750マイラーを評して、「あんなに乗るのに見合った金をもらっていない」(They don’t pay me enough to ride that thing.)と述べ、そのとてつもないモンスターぶりを周囲に印象付けました。

8月のインディが終わると、TZ750がターゲットとするマイルレースは、9月の「シラキュース」と10月の「サンノゼ」の2戦のみ。

1975/09/07 Syracuse(NY)Mile Race

シラキュースは予選を走ったところで、TZ750の特性にコースが全く合ってないことが分かり、

ケニーは急遽、XS650に乗り換えたものの、Fフォークが千切れ飛んでしまうほどの大クラッシュを起こしています。

1975/10/21 San Jose(CA)Mile Race

このサンノゼが「TZ750マイラー」最後のレースとなりました。(というのも、AMAはTZ750をレースから締め出すために、1976年シーズンから「最大2気筒まで」という制限を加えたからです)

予選は好調で、2台のハーレーを引き連れて周回する画像が残されていていますが、決勝はクラッシュ、リタイヤで終わっています。

TZ750マイラーは、とくかくトラクション・コントロールに問題を抱えておりました。

その対策として、まずエンジン位置を前側にずらすという大ナタが振られています。また、コーナー進入時に重要なエンジンブレーキが不足するという2ストエンジンの特性に対しては、3番気筒の点火をカットするスイッチが追加され、さらにタイヤも見直し、19インチのグッドイヤー D/T は、ハンドカット・グルービングされた18インチ、グッドイヤー・ロード用スリックに替えられました。

19 inch version

18 inch version

実のところ、このタイヤに関する変更は英断でありました。というのも、グッドイヤーはその後、D/T を D/T-2 にモデルチェンジするにあたり、TZ750マイラーに採用したのと同じコンセプトのものを出すことになったからです。

以下は70年代に一世を風靡したグッドイヤー D/T の広告集。ケニーをオンでもオフでも支えたグッドイヤーは現在、2輪用タイヤは作っておりません。他社においても、フラットトラック用タイヤに関して、これほどまでに大々的に宣伝されることはないでしょう。古き佳き時代がしのばれます。

1972 Mark Brelsford

1972 Chuck Palmgren

1972 Chuck Palmgren

1975? Dave Aldana / Mike Kidd

ケニーですら、TZ750マイラーを乗りこなすという域には達しておらず、直線では最高馬力の出る回転を避け、4速ではなく5速を使っていたほどで、ケニーは「TZ750は、オーバーパワー過ぎて自分の望むものではなかった。ハーレーを倒すのに必要最低限のパワーを持つエンジンで十分だった」と総括しています。もし、TZ750が1976年シーズン以降も使用を許されたとしても、成功しなかっただろう、というのはチーム内外で共通した認識でありました。

ケニーの弟分でダート慣れしたスキップ・アクスランドは、TZ750の暴力的なパワーをなんとか御しておりましたが・・・

ロードではTZ750を手足の様に扱うスティーブ・ベイカーも、ダートでは手に余るシロモノでありました。(この表情!)

TZ750マイラーには、ライバルであったハーレーのワークスライダーの2人、ケニーを制してチャンプとなった「スコット・パーカー」と新進気鋭の「ジェイ・スプリングスティーン」も試乗しています。

突然のレギュレーション変更でお蔵入りとなってしまいましたが、トラックマスター製フレームのTZ750も存在しています。

2009年、レストアされたTZ750マイラーが、ケニーによってインディで走っています。ヤマハで9度目のGPタイトルを獲得した「バレンティーノ・ロッシ」もこのイベントに絡み、話題をさらっています。

KNIGHT TT HONDA

ナイト製フレームに市販レーシングエンジンRS500Dを積んでいます。(オーナー氏、クランクケースに「RS500E」の打刻がなされたHRC謹製であることを強調されておりました。XL/XRエンジンじゃないよ、と)

よくみるとFフォークはおなじみのM1Rです。

上の「ナイトTTホンダ」は、そのままレースに出られる(Race Ready)コンプリートマシンとして販売されていました。KERKERのマフラー、M1RのFフォークは、当時の紹介記事からオリジナルパーツであることが分かります。(TTマシンゆえ、フロントブレーキが装備されています)

ワークス仕様のRS600D。同じナイトフレームです。

こちらもワークスRS600D。ただしフレームはC&J製。リンク式モノサスは当時としては先進的で、寝かして搭載しているのも斬新です。ワークスマシンと言えども、ライダーの好みによってフレームメーカーを選ぶ自由度があるのがフラットトラックレースの面白さと言えましょう。

フロントブレーキを持つTT仕様。

ちなみにこのエンジン、シングルレースが盛り上がっていた80年代後半の日本でも、ホンダとのパイプを持つチーム・イクザワ(伝説的レーサー、生沢氏が世田谷区深沢で経営されていたオートバイショップ)を通じて販売されておりました。

Harley-Davidson XR750

この日のために、はるばる四国(愛媛だったかな?)から参加されたのことです。

このボックスの中には、普通にスーパートラップが仕込まれています。

CCM

CCMの市販モトクロッサーに短い脚を組んだ仕様のようですが・・・さりげなく、おそろしく趣味性の高い一台。

CCM (Clews Competition Machines) は、70年代初頭から80年代初頭までのごく短い期間、英国に存在したモトクロス競技車専業メーカーです。

70年代は大排気量クラスでも、すでに日本製2ストマシンが猛威を振るっていた時期で、CCMは、60年代のテクノロジーの4スト単気筒エンジンを引っさげ、英国内選手権のみならず世界選手権でも孤軍奮闘していました。

ちなみに70年代の世界MX選手権500㏄クラスはスズキとヤマハで、ほぼすべてのタイトルを分け合っていた時期でした。(他にホンダとハスクが1勝ずつ)

1973 SUZUKI RN73

1977 YAMAHA YZ400

CCMは1960年代に成功したBSAの競技部門がベースとなっています。

500㏄最軽量を狙い、チタン製フレーム、スイングアームが採用された1966年式BSAワークスビクター。

BSAのワークスMXチームは1971年に解散、1973年にはBSA本体も合併により消滅してしまうのですが、そのワークスチームの資産をすべて買い取ったのが、元BSAワークスチーム員だった「アラン・クルーズ」(Alan Clews)で、彼がCCMを設立するのは1973年のこと。

当初はBSAから購入したパーツをそのまま販売する組織でした。そのパーツが尽きた後は、独自に車両開発を行うメーカーとして活動するようになっています。

単気筒でリッター100馬力を発する4バルブヘッド。

当時のCCM工場内の珍しい画像が残されていますのでご紹介いたします。

意外にもフレームは内製(初期はリックマン製)で、カットされたフレーム材は、

ジグ上でTIG溶接で組み立てられています。

マシニング行程。

マグネシウム製エンジンカバーはボール盤で加工されています。(町のバイク屋レベルですね(笑))

ヘッドの組立・調整。手に持っているのはタコ棒でしょうか?

廊下にタイヤや完成車両が保管されています。

車輛は月産20台だったそうです。

JAWA

チェコのメーカー。現在もスピードウエイレーサーを販売しています。

後輪駆動用のチェーンがクラッチ裏から出ていることに注目!!

オートレーサー(メグロ製エンジン)も同じ構造を持っています。

こちらのエンジンは普通の位置にドライブ・スプロケットが付いているのが見えます。

「スピードウエイ」とはヨローッパにおけるフラットトラックレースといえましょう。

派生バージョンである芝生の上で行うグラストラックとか、

氷を上を走るアイスレースなども日本で知られていますね。

そういえばドカにもアイスレーサーがありました。

FANTIC

新生ファンティックはその名も「フラット・トラック」という名のバリエーションモデルを出しています。

ファンテックの日本代理店が2台のレーサーを用意し、デモ走行を行っていました。出来たてホヤホヤ、とりあえず形にしたのを持ち込みしました、という態で、セットアップは今後の課題という印象でしたね。

ウォーターキャッチタンクを急遽取り付け。(ホンダF1も1964年のデビュー戦で、オイルキャッチタンクの装着義務を知らなくて、急遽、空き缶を取り付けたという歴史的事実(笑)があります)

サイドバルブ&リアリジッド、さらには前後ブレーキなしの太古ハーレーがコースに乱入。

潮・・・いえ冷却水を吹いちゃいました・・・

C&J XR650

C&JフレームにXR650の水冷エンジンを積んだレーサー。

H特派員による試乗。

AMA グランドナショナル選手権

日本ではあまり知られていないフラットトラックレースですが、かつては米国最高峰のレースでありました。1954年から始まる伝統のAMA「グランドナショナル選手権」(GNC)は、ひとつのシリーズ内にダートとロードが存在するという特異さで際立っていました。

1971 #7 Mert Lawwill

1986年、ロードレース部分がスーパーバイクシリーズとして独立すると、GNCはダート・オンリーのシリーズとなり、現在は「アメリカンフラットトラック(AFT)シリーズ」と呼ばれています。

AMA クラスA レギュレーション

1924年、既存のレース統括団体はAMAとして組織化されると、同時にレース・レギュレーションの整備を行いました。国内選手権には、マシンに一切の制限がない「クラスA」が採用され、オートバイメーカーが製造したプロトタイプマシンの頂上決戦の場となります。

1929年に起こった「世界恐慌」が状況を大きく変えました。ビッグ3と言われた「エクセルシオール・ヘンダーソン」、 「インディアン」、「ハーレー・ダビッドソン」のうち、1930年にヘンダーソンがオートバイ生産を止めてしまうと、残った2社は、金の掛からない量産車をベースとしたクラスの新設をAMAに働きかけるようになります。

AMA クラスC レギュレーション

1933年、市販車を使用し改造範囲を厳しく制限した「クラスC」が適用されたレースが開催されました。クラスCは多くのプライベーターらに支持され、ますます盛んになっていくのに対し、クラスAの使命は急速に失われていきます。1938年をもって国内選手権はクラスAからクラスCに移されました。

フラットラックレース黄金時代の到来

第2次大戦のため1942年より中止されていたレースは、1946年から再開されました。1954年、国内選手権はダート4種とロード1種を複合したシリーズ戦、「グランドナショナル選手権」(GNC)として整備されます。

US市場では、レースの成績が市販車の販売成績に直結していたため、1950年代には英国メーカーが、1960年代には、伊、独、スペイン、日本メーカーがGNCへの参戦を開始。レースは、かつてない活況を呈するようになりました。

レースが白熱するのに対し、改造が厳しく制限されていたクラスCにおいて、チューナーらは、いかにAMAの車両検査官の目から改造個所をごまかすかが肝要という風潮が蔓延するようになりました。メーカーも、例えば、社外のスペシャルフレームに自社のパーツナンバーを割り振り、純正オプションパーツとして売ることで、その使用を合法化するなど、1933年に始まった素朴なレギュレーションを、どう曲解するかに腐心していました。

独立系フレームビルダーの隆盛

AMAは、チューナーと検査官のイタチごっこに音を上げたのか、1968年シーズンより、クラスCでもスペシャルフレームの使用を認めたのです。このルール変更は雨後の筍のごとく新たなビルダーが旗揚げを行う契機となりました。(しかしブームが冷え込むと、その多くは80年代を迎えることなく、市場から退場していくことになります)

AMA史上初のクラスC公認となったアフターマーケットフレームは「ソニックウエルド」(Sonicweld)製でありました。

Sonicweld

ソニックウエルドは1960年代半ば、「レイ・ヘンズレー」(Ray Hensley)と「ケニー・ワトキンス」(Kenny Watkins)によって設立されました。マシン開発に定評のあったレーサー、「ニール・キーン」(Neil Keen)も運営に深くかかわっています。

若き日のヘンズレーと1965年に作られたソニックウエルド初のフレーム。まだリア・リジッドの時代でした。

フレームはクラスA・ショートトラック用で、ホンダ製250㏄単気筒エンジンが載せられていました。

1968年からのレギュレーション改正でクラスCがソニックウエルドの主戦場となります。

1969年、「トミー・ロックウッド」(Tommy Rockwood)はBSAゴールドスターのエンジンをソニックウエルド製フレームに積んだマシンでアスコットのラップレコードを記録しています。このマシンは、「リアリジッド+前後ノーブレーキ」時代の最後期のレーサーとなりました。

ニール・キーンは、1968年から1970年までUSヤマハのダートトラックレース活動に、レーサー兼開発ライダーとして参加しています。DT1のフレームにはソニックウエルドが採用されています。(キーンのヤマハに対する貢献は大きく、DT1用ダウンチャンバーはキーンの作でした)

#10 Neil Keen – Sonicweld YAMAHA DT1

#101R Keith Mashburn – Sonicweld YAMAHA DT1

2スト2気筒。(TT用でしょうか。フロントブレーキを装備しています)

Sonicweld YAMAHA TD1C

2スト3気筒。

Sonicweld KAWASAKI 500

Trackmaster

1969年、レイ・ヘンズレーはニール・キーンとともにソニックウエルドから離脱し、トラックマスター(Trackmaster)を設立します。

トラックマスターの設立に際し、トライアンフのファクトリーライダー「ゲーリー・ニクソン」(Gary Nixon)の出資がありましたが、トラックマスター初のフレームは意外にもBSA用で、「ダン・ハービー」(Dan Haaby)が乗っています。

トラックマスター製フレームは、最盛期にはトップ10ライダーのうち7人が使用しており、名実ともにトップブランドであり続けました。

トラックマスター設立と同じ年、キーンは「ニール・キーン・パフォーマンス」を開き、自身の長いレース経験から得た知見をもって、トラックマスターフレームのセットアップに勤しみ、トラックマスターの名声を高め、支えました。

キーンが乗るDT1のフレームは、リアリジッドのソニックウエルド製からスイングアーム付きのトラックマスター製に代わっています。

キーンは1970年からDT1に引き続きXS650の開発コンサルタントを務めています。

1970 Trackmaster XS650

70年代後半に入ると、ダートトラック市場は急速に冷え込み、フレームビルダーたちは生き残りをかけて、BMX製造に手を出しています。トラックマスターも例外ではありませんでした。(BMXは1978年から1985年まで販売)

最終的にヘンズリーはフレーム・ビジネスに見切りをつけ、突如、カナダに移住してしまいます。その後のトラックマスターは、人手に渡りつつも、ブランド名だけは残ることになります。

Staracer

「ラリー・ケネディ」(Larry Kennedy)が設立した「スターレーサー」は、ソニックウエルド、トラックマスターに次ぐ老舗のビルダーであり、現存するブランドです。

スターレーサーのフレームは、前輪と後輪を一直線上に置かず、後輪をオフセットさせることで左回りオーバルに特化したジオメトリーを採用していたことで特筆されます。(ゆえに、右回りもあるTTレースには使えませんでした)

ヘンズリーとの合流

移住していたカナダから戻ったレイ・ヘンズリーは、ラリー・ケネディとニール・キーンと組んで、フレーム製作を再開します。まもなくケネディは会社を売却してしましますが、1997年のヘンズリーの死後も、後継者らが、当時のジグを使ってフレームを作り続けています。顧客の希望次第で、以下のような特殊なオーダーにも応じているようです。

Cheney Engineering

あまり有名ではありませんが、「ジェリー・チェイニー」(Jerry Cheney)が60年代に創設した老舗ビルダーです。(同時期に英国に存在した著名なモトクロスフレームデザイナー、「エリック・チェイニー」(Eric Cheney)と混同されがち)

現在もブランドは存続しており、当時のフレームをビンテージとして、また最新エンジン用フレームも販売しています。以下のXS650用フレームは現在でも新品として手に入れることができます。

Champion (Schwerma Products Inc.)

1970年頃、「ダグ・シャワルマ」(Doug Schwerma)によって始められました。

ケニー・ロバーツ在籍時代のヤマハワークスにフレームを供給したことで、数知れないほどの勝ち星を挙げ、フラットトラックの世界で大きな役割を果たしています。

宣伝で見る歴史
まだチャンピオンを名乗っていなかった頃のささやかな広告。

1970 or 71

ケニーを乗り手に得て、早くも快進撃が始まります。

1971-72

1972

1973

1974

1975

YPD (YAMAHA PARTS DISTRIBUTIONS, INC.)
チャンピオンはUSヤマハによって、メーカー純正チューニングパーツの供給元に選ばれています。日本でいうGYT(Geniune Yamaha Tuning)パーツ(ギットパーツ)に相当します。

XS用フレーム、ディーラー仕入価格 $465.00

TD&R5用フレーム、ディーラー仕入価格 $395.00

RT、DT、MX250、360、500用フレーム、ディーラー仕入価格 $395.00

Champion BMX
1975年には後に伝説となったTZ750エンジンを積むフラットトラッカーをデビューさせていますが、一方この年からBMXフレームの製造も始めています。トップビルダーですら、生き残るためには厳しい時代が来ていました。

チャンピオン初のBMXフレームは、クロモリ削り出しのヘッドチューブ、ボトムブラケットという他にない特徴を持っていました。

初レースは、サンノゼで行われた「ウエストコースト・インドア・ナショナル」で、「ジョン・ウエルス」(John Wells)のライディングで見事、優勝を果たしています。

チャンピオンの最期
1976年3月、驚くべき悲劇が起きたのです。傍からは順風満帆に見えていたダグ・シャワルマは、とある深夜、ピックアップトラックに排ガスを引き込み自殺を図り、この世を去ってしまったのです。(事業不振による金銭問題が原因と言われています)

主を失ったチャンピオンは崩壊し、残った資産はブランド名ごと「レッドライン」(後述)に買い取られています。

REDLINE

トラックマスターのスタッフだった「マイク・コンル」(Mike Konle)、「リーン・カステン」(Lynn Kasten)は、1970年11月にレッドラインを創設しています。

レッドライン初期の作、トライアンフのファクトリーレーサー、「アウトロー・ジャスティス」(Outloaw Justice)。1972年にドン・カステロ(Don Castro)がライディングしました。

レッドラインの製品は十分以上にハイクオリティで、市場で重要な一角を占めたものの、トラックマスター、チャンピオンらの壁は厚かったのでした。

一方、1974年より一大ブームだったBMXの製造を始めていますが、BMXの世界では大成功を収めることになります。

1974 Redline Monoshock BX

1976年、経営破綻したチャンピオンを買収しています。

1977年、レッドラインとチャンピオンは分社。

レッドラインの経営はリーン・カステンが引き受けましたが、この時点でレッドラインは、ほぼBMX専業メーカーとなっていました。業界の先頭を走っていたチャンピオンが破綻したことで分かる通り、フラットトラックレーサーのフレーム製造業者には厳しい時代が来ていました。

チャンピオンの経営はマイク・コンルが引き受けることになり、こちらはオートバイとBMXのフレーム販売を続けています。

1985年4月、ホンダのワークスフレームに装備されていたリンク式モノショックフレームを、プライベータ向けとしてプロトタイプを発表しています。(若干24歳の設計者「バド・キャロル」(Bud Carroll)の意欲的な試みは、残念ながら市販に漕ぎ着けられることはなかった・・・はず)

1985年、コンルはチャンピオンを売却してしまうと、新たにトラックに据え付けるクレーンの製造会社を立ち上げています。新会社の名称は「チャンピオン・クレーン・カンパニー」(Champion Crane Company)でありました。

BMXブームの潮も引き切っていた1988年、カステンもレッドラインを売却しています。

C&J Racing

1970年、高校の同級にあった「ジェフ・コール」(Jeff Cole)と「スティーブ・ ジェントジズ」 (Steve Jentges)は、「C&J プレジション・プロダクツ」を設立します。同じ高校の同級生でレーサーとなった「ダラス・ベーカー」(Dallas Baker)がフレーム開発上の助言を与えていました。

USホンダとの関係は厚く、CR250エンジンを積むショートトラックレーサーがUSホンダからコンプリートマシンとして販売されています。

C&J の歴史でハイライトといえるのは、1980年代に引き受けた一連のHRCの仕事でしょう。

HONDA NS750

RS750Dのフレームは、HRC設計のリンク機構を持っています。

HONDA RS750D

こちらもリンク機構を持つワークスフレーム。

HONDA RS600D

C&Jはロード、モトクロス、エンデューロ用フレームにも手を広げ、それらも成功しています。

1980 C&J XR500

ケニーがチーム員のトレーニングのためにスペインの基地に用意したダートトラッカーのフレームはC&J製でした。

ジェントジスのC&Jの在籍は最初の6年間のみで、ロン・ウッドの工房に転職しています。一方、コールは2004までの34年間、C&Jの仕事を続けた末に会社を売却しています。

Knight frame

わずか19歳でチャンピオン・フレームの職長を勤めていた「テリー・ナイト」(Terry Knight)はシャワルマの死を機に独立を果たしています。

彼のバックには引退したばかりの伝説的レーサー、「マート・ローウィル」(Mert Lawwill)が付いていました。ローウィルは自転車のフレーム製作にも意欲を燃やし、ナイトと協同で「ローウィル・ナイト」として活動しています。

ローウィルからケニー・ロバーツ、USヤマハにつながり、さらにはUSホンダとも関係し、ナイトは1970年代後半から1980年代にかけて一時代を築いています。

YAMAHA

HONDA

Harley-Davidson

Kawasaki

Others

Boss frames

1969年、「カルロ・ルチア」(Carlo lucia)が設立。

ボス黄金時代の6人。右から「#1 リック・デラシー」(Rick DeLacy)、「#2 マイク・ファレン」(Mike Faren)、「#3 ドン・ベイリー」(Don Baily)、「#4 ジム・メーテンス」(Jim Mertens)、「#6 チャック・ミラー」(Chuck Miller)、「#7 ランディ・マモラ」(Randy Mamola)。

ホダカの100㏄エンジンを積む。珍しい。

YZ250エンジン。

XS650エンジン。

もはやお決まりな感じですが、BMXフレーム製造にも手を出していて、成功しています。

左から「ダーウィン・グリフィン」(Darwin Griffin)、「セシル・ジョーンズ」(Cecil Johns)、「カルロ・ルチア」。

2人のライディング。

BMXのボスは、カルロ自身がごく少数をハンドメイドで生産するブランドとして現存しています。

Viper Racing Frames

イリノイ州シャンペーンのデルトン・トイスチャー(Delton Teuscher)が製造するフレーム。2ストローク250㏄用が多く、トップチューブが2本と1本のバージョンがあります。

CMR Racing Products

1965年から英国でロードレース用フレームを作っていた「デニス・カーチス」(Denis Curtis)は、1970年代初頭にカナダに移住し、CMRを起こしています。初めは英国時同様、ロード用フレームを製作していましたが、ダートレースの大ブームに応じ、フラットトラック用フレームを作り始めています。

AMAのGNCにも参戦しており、1973年から1977年まで「ランディ・スキーバ」(Randy Skiver)をサポートしています。スキーバはハーフおよびマイルレースではBSAの2気筒エンジンを使い、

ショートトラックおよびTTレースでは、ホンダの4スト単気筒エンジンを使っています。

実のところ、カーチス自ら、YPDで購入したチャンピオン・フレームを見て、そのジオメトリーをコピーしていたと述べていますが、エンジン搭載位置だけは高すぎると感じ、1.5インチから2インチほど低くしていたとのことです。

ホンダ用

カワサキ用

名チューナーたち

Dick Mann Specialties

言わずと知れたAMAのヒーロー、「ディック・マン」はエンジニア志向の強いライダーで、1966年、BSA A65用バックボーンフレームを設計しています。そのフレームはカテゴライズすれば、スクランブラーに属しました。

1967年には、NYのオッサ・ディーラー、「ヤンキー・モーターカンパニー」の「ジョン・テイラー」(John Taylor)と組み、上記フレームと同じコンセプトで「ヤンキー MX460」を製作しています。

さらに1969年には、オッサ・ウエストの「フランク・コナー」(Frank Conner)と組み、「オッサ DMR (Dick Mann R)」を製作しています。これは前作とは異なり、フラットトラックレーサーでありました。

DMRはレースで良い成績を残したため、ヤンキーは、1970年から1971年にかけ、「ヤンキー/オッサ DMR」として150台製作・販売しています。

Kenny Roberts

意外なことに、あのキング・ケニーも自分の名前を冠したフラット・トラック用フレームを市販していました。

1974 Kenny Roberts Yamaha 360

もちろん、自らが乗るレーサーのフレームも「スパーキー・エドモンストン」(Sparky Edmonston)および「ジェリー・グリフィン」(Jerry Griffith)らと共同で開発していました。このフレームにはツインショック・バージョンとモノショック・バージョンがあります。

1976 KENNY ROBERTS GRAND NATIONAL

1977 XS650

1977 Penton/K-R

1983 500TT

1976 BMX

さらに、ケニー印のBMXフレームまであったことは、ほとんど知られていない事実ではないでしょうか!

Shell Racing Specialties

「シェルダン・エドモンド・トゥエット」(Sheldon Edmond Thuet)は1912(大正元)年8月1日カリフォルニアに生まれています。

12歳の時、父親が油田事故で死亡したため、4人兄弟の長兄として働きに出なければならならなくなり、自動車修理工の職に就いています。1939年、27歳の時にインディアンからファクトリーサポートを受けていた「ジミー・ケリー」からメカニックになってくれないかとの誘いを受け、オートバイレースの世界に入ることになりました。

ケリーとシェルのチームは成功しましたが、第2次大戦で活動は中断されてしまいます。戦争中のシェルは造船所で溶接工として働き、終戦を迎えた1945年に結婚すると、1946年にロサンゼルス近郊にインディアンを扱うショップを開業しています。自身のインディアン・スカウトをチューンし、有望なライダーに乗せると数々の勝利を挙げ、彼のインディアンは速いと評判となりました。

1949年、インディアンのディーラー権を得ています。

1953年にインディアンが倒産してしまうと、ロイヤル・エンフィールドがチューンの素材となりました。誰も速くすることはできないと言われていたエンフィールドを、見事、単気筒500㏄最速に仕上げ、さらに名声を高めています。

1960年代に入るとヤマハとグリーブスを扱うようになりました。

1961年の「ライオンズ・ドラッグレース」において、ヤマハで250ccクラスの勝利を果たしています。

1970年、USヤマハから依頼を受け、XS650でAMAグランドナショナル選手権に参戦しています。ライダーはDT-1使いとして名を馳せた「キース・マックバーン」(Keith Mashburn)でした。

1972 #19 Keith Mashburn

シェルは、1973年および1974年のUSヤマハのワークス活動を受け持つことになると、自身のショップを売り払い、レースに専念することを決めます。

初年度のライダーは、スーパールーキーとの評価が高かった #80「ケニー・ロバーツ」、トライアンフから移籍してきた #11「ドン・カストロ」の2人でした。ケニーは1973年のグランドナショナル・チャンプとなり、ドン・カストロは総合5位におさまっています。シェル自身はチューナー・オブ・ジ・イヤーの栄誉を得ています。

2年目は、新たに #3「ジーン・ロメロ」が加入し、#1「ケニー・ロバーツ」、#11「ドン・カストロ」との3人体制となりました。ケニーにはチャンプを防衛し、ジーン・ロメロは総合3位、ドン・カストロは総合12位と輝かしい成績を残しています。

なんと、YPDはレースにおけるテクニカル・チップスを冊子にして販売していました。シェルはこの冊子に情報提供をしています。(読んでみたい!)

シェルがチューンしたXS650と同じパーツを欲しがるユーザーが多く、シェルは「シェル・レーシング・スペシャリティーズ」を立ち上げると、ヤマハディーラー通してパーツを販売するようになりました。

1976 0w72

1975年以降、シェルはヤマハ系の独立チューナーとなりますが、「0W72」を開発し、さらに自身の名声を高めています。

クラスCのレギュレーション変更
 
1975年シーズンからクラスCのホモロゲ公認に必要な車両台数は200台から25台まで引き下げられました。これはノートンのロビー活動の賜物で、ノートンはフォーミュラ750に使用しているショートストロークエンジンをAMAのダートトラックレースでも使いたいと考え、英国のACUからFIMに手を回し、AMAを動かすことに成功しました。しかし、この変更はノートンにとっても諸刃の剣で、1976年よりヤマハが0W72を投入できるようにもなったのでした。

The Story of 0… 0W72, that is.

サイクルワールド誌 1976年1月号

シェルのチューンした「0w72」に乗ったライダーを抜粋して紹介します。その後、世界的に有名となったライダーも多数おります。

#1 Kenny Roberts

#11R / #21 Eddie Lawson

#8E Wayne Rainey

レイニーとローソンをフィーチャーした広告。

#1 Gary Scott and #14 Hank Scott brothers

#55 Tom Horton

#13 Rick Hocking

1980年代半ば、シェルはついにレースの世界から引退しますが、XS650ユーザーにチューンナップパーツの提供は続けていました。2001年にモーターサイクルの殿堂入りを果たし、2011年に98歳で天寿を全うしています。

最後にちょっと長い余談を・・・

Hollister ’47

1947年7月3日から6日に掛けてカリフォルニアの田舎町、ホリスターでAMA主催の年次ラリーが行われました。人口2,000人の町に集まった参加者は4,000人とも言われています。

当初、町は歓迎ムードでしたが、まもなく酒が入ったバイカーたちがバーを破壊したり、ストリートで暴走するなどの騒ぎを起こし始めます。町の保安官7人が総出で対応したのですが、4日の夕方には制御不能の状況に陥っていました。最終的に50人もの逮捕者と60人もの怪我人(うち重傷3人)を出す大惨事と相成ったのです。

この事件は「ホリスター暴動」として地元の新聞などで報じられましたが、なにより大きかったのは、著名な全国誌であるライフ(1947年7月21日号)の記事となったことでした。

誌面を飾った、あまりに有名なこの写真。地面に撒き散らされたビール瓶はカメラマンの「演出」だったと言われていますが、「事件」が起きたことは紛れもない事実であり、否定のしようはありませんでした。

The Wild One

ホリスター暴動にインスピレーションを得た短編小説「サイクリスツ・レイド」が、「ハーパーズマガジン」1951年1月号に掲載されました。

その小説は、1953年に公開されたマーロン・ブランドの主演映画「乱暴者(The Wild One)」の原作となったのです。

アウトローバイカーを主人公にしたこの映画は、現在の目で見れば他愛もない話ですが、今よりはるかに表現に制約のあった牧歌的な時代においては極めて刺激的な題材であったということです。

The 13 Rebels Motorcycle Club

シェルは、AMAのトップレーサー13名で1937年に結成された「13レブルズ・モーターサイクルクラブ」の設立メンバーの1人でありました。(13レブルズ・モーターサイクルクラブは現存し、US最古のAMA公認クラブとなっています)

ちなみに、ヤマハにデイトナのメインレース、200マイルに初勝利(1972年)をもたらしたのは「ドン・エムデ」でしたが、その父親「フロイド・エムデ」もインディアンでデイトナ200マイルに優勝(1948年)しています。この親子2代のエリートレーサーは、2人とも13レブルズのメンバーでありました。

1948 Daytona 200 Winner : Floyd Emde

1972 Daytona 200 Winner : Don Emde

Boozefighters Motorcycle Club

話を戻すと、1946年のある日、クラブメンバーであった「ウィノ」こと「ウイリアム・フォークナー」が、酒に酔ってサーキットに現れ、フェンスぶつかるクラッシュを起こしてしまいます。彼の行為は正統派レーシングクラブである13レブルズの方針にそぐわないとされ、ウィノはクラブを去ることになり、まもなくウィノは、自身の「ブーズファイターズ・モーターサイクルクラブ」を立ち上げることになります。(「ブーズ」とは酒の意味を持つスラング)

実は、13レブルズ、ブーズファイターズの両クラブ員は、かのホリスターラリーの現場にいたのです。そしてブーズファイターズの連中は暴動の中心にもいたのでした!

路上で大瓶の酒をラッパ飲みする男はウィノ本人らしい

「乱暴者」でマーロン・ブランドが演じた「ジョニー」が属する「ブラックレブル・モーターサイクルクラブ」は13レブルズが、ブラックレブルと対立する「ビートルズ」はブーズファイターズがモチーフとなっているというのは定説です。(さらにえいば、ビートルズのリーダー「チノ」はブーズファイターズのリーダー、ウィノがモデルであるのは明らかですが、ジョニーのモデルはシェルという説も根強くあります)

Ron Wood

歴史を継承する

Powroll Trackmaster

トラックマスターの権利を購入した「ポウロール」(Powroll)の「ピート・フィッシャー」(Pete Fisher)は、「コピーではない」トラックマスターの過去の遺産の販売しています。

J&M frame

マイク・オーウェン(Mike Owen)はナイトのディーラーでしたが、ナイトがフレーム製造を辞めてしまうと、みずからの名を冠したフレームを作り始めました。

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AMAゼッケンのしくみ

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私は長らく、ゼッケンナンバーの横に小さくあるアルファベット・・・全員が付けているわけではない・・・の意味が気になって仕様がなかったのですが、見て見ぬふりをしていました(笑)このたび調べてみると、ライダーの出身地区を示す文字ということが判明しました。

選手権ランキング100位までのライダーには、末尾にアルファベットなしで1から100までの数字が割り当てられますが、それ以外のライダーには、「数字+地区を表すアルファベット一文字」形式のゼッケンが割り当てられるようになっています(いました)。

文字と地域の対応は以下の通りです。

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ミス・キャメルを知っていますか?

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AMAグランドナショナル選手権に興味を持つようになると、表彰台シーンに必ずある女性が写っているのに気づくのではないでしょうか。

キャメル・プロシリーズ
1970年代、R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーはUS国内中のモータースポーツに金のバラマキを開始します。AMAのグランドナショナル選手権も例外ではなく、1975年より「キャメル・プロシリーズ」という冠が付くことになります。(1979年から1983年までは、キャメルよりウィンストンを売りたいと思ったのでしょう、「ウィンストン・プロシリーズ」と呼び名を替えています)

「キャメル・プロシリーズ」のポディウムガール「ミス・キャメル」を、19歳のときから14年間も勤め上げ、グランドナショナル選手権の枠を越え、「レース界で最も知られた女性」との異名を持つ女性が「リン・グリフィス」です。

ミス・キャメルは、年に10万マイル以上のサーキット行脚をしなければならず、それを14年間!!アラバマ州出身のド根性ネエちゃんでなければ勤まらなかった偉業といえるでしょう。

ミス・キャメル引退後のリン姉さん

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