2019/10/25 雨の筑波走行会

サーキットまでの道中、イマドキめずらしい「チバラギ」仕様のマークIIを発見!!

あおんなよ・・・煽り運転は違法です。

今年は筑波の走行会は3回ありましたが、すべて雨に祟られてしまいました。

当店からのエントリー12名でしたが、当日サーキットまで来られたのはS波さん、1名のみ。誰も来なかったら・・・という不安はとりあえず解消されました。

お昼ごろには豪雨になる予報。さすがのS波さんも車両を下さず。

ピットの贅沢な使い方。

一流レーサーのすべらない話

座学という名の各インストラクターのトークショーが催されました。筑波攻略法なんて始められたら寝てしまうぞ!なんて思っておりましたが、意外や意外、みなさん話し上手で2時間みっちり楽しむことができました。

丸山選手

東京ショーでデビューした話題のZX25Rについて。

30年前の250㏄4気筒は国内向けの商品だったが、もはや日本の衰退市場のみでは商売として成立しない。今後伸びていく東南アジア諸国向けにフラッグシップとして出すものを日本にも回すのだろう。

価格は、トラクションコントロール他、上級車並みの電子制御の装備により、100万超えは避けられないのではないか。

レーサーレプリカブーム時代の250㏄4気筒は、メーカー間の競争の中、スペックが過剰に先鋭化されていった。一般ユーザーは置いてけぼりを食らっていて、ブームが終わると何も残らなかった。今回、他メーカーの追随も歓迎したいが、同じ轍を踏まないことを願う。

青木選手

質問コーナー。

★MOTOGP、恒例のタンデムライド。こないだの茂木では二台でコースに出て行ったが、一台しか帰ってこなかった。特にアナウンスもなく、有耶無耶なままイベントは終わってしまったが、あれってやっぱりどこかで転倒してしまったのでしょうか?事情をご存知ですか?

詳しくは知らないが、おそらく予想の通り。転んだのはランディ・マモラの方だろう。同乗者は、乗る前に「事故で死んでも文句言わない」旨の契約書にサインしているから、なにがあっても文句は言えない。

戸田選手

日本では知られていない中国のサーキット事情。

中国初の常設コースで、FIA公認の珠海(ジュハイ)国際サーキットに年に数回、仕事がらみで訪れているとのこと。

今の中国、金があるので、走っている4輪はスーパーカー。バイクに付けられたパーツも全日本トップチーム並。(付いているパーツはホンモノですか?というツッコミあり)しかし、マシンセットアップはメチャクチャ。工具もろくに準備されていない。しかし、サーキットのホスピタリティは日本よりはるか先にいっていると言わざるを得ない。パドック内にショップ棟が存在していて、店からそのままコースイン。エアコン、シャワー、至れり尽くせりのサービスが受けられる。富裕層相手のサーキットビジネスではあるが、とことんストイックな日本も見習うところはあるのではないか。

ちなみに戸田選手のプレゼン時間中、丸山選手はぐっすり寝ておられました!

須貝選手

須貝選手は他インストラクターとの雑談形式で進行。

今年の8耐の顛末についての私見。ブローした後のスズキの行動に批判は多いが、同じ立場なら自分もそうしてしまったのではないか、スズキの判断を是とするものではないが、気持ちは痛いほどわかる。

以下、ご存じない方に顛末をご紹介。

●事前の思惑通り、目玉のホンダ、ヤマハ、カワサキ3大ワークスのデッドヒートで、終盤戦は沸きに沸いていた。

●残り5分40秒を残したところで、9位走行中のスズキがホームストレートエンドで盛大にエンジンブローを起こす。シリーズタイトルが掛かっていたスズキは白煙を吐きながら走行を続ける。

●レース・オーガナイザーはレースの続行を判断する。

●残り1分17秒で、トップ走行中のカワサキが、S字二個目でオイルにのって激しく転倒してしまう。

●ここで赤旗が出てレースは中断。そのまま終了。

●「カワサキは、レース終了後5分以内にフィニッシュラインを通過できなかった」という理由で、2位を走っていたヤマハの優勝という裁定が下され、表彰式が実施される。

●カワサキの抗議を受け、レギュレーションを精査したFIMは、「赤旗提示の1周前の順位を採用する」という規則に則り、カワサキの優勝に変更する。

●ヤマハもその変更を受け入れ、正式にカワサキの優勝が決まる。(カワサキは同時にシリーズタイトルも獲得する)

●エンジンブローしたスズキが走り続けたこと、赤旗介入が遅かったのではないかということ、優勝チームが変更されたこと、などと多くの人に疑問や不満を残す結果となった。

その他

チーム・ゲッター(ヨコハマタイヤ)の話が出て、タイヤの昔話に・・・今は我が世の春のブリヂストンも、後発メーカーだったため、先発の海外メーカーによい原材料を出すゴムの木を抑えられていて、当初は大変苦労したそうだ。原材料の差を埋めるべく技術開発に励み、その差を克服した。当時は肩を並べていたBS社と某社、現在は完全に差が開いてしまった。その差は今後も埋まることはないだろう。

坂田選手

MOTOGPの解説裏話。

★丁寧な解説が好評だが、どんな準備をしているのか?

大したことはしていない。テレビ局から渡される資料のほか、統括団体や選手のホームページを閲覧しておく程度。MOTGPの解説に対し、MOTO2、MOTO3はインタビュー数が多くて大変。これでギャラは同じなんだからやってられない。

★選手名の呼称はどう決めているのか。たとえば、ファビオ・クアルタラロか?ファビオ・クアッタハッホか?

テレビ局から渡される資料に基づいている。テレビ局は本人に確認しているので、現地での発音に近いものとなっている。雑誌やスポーツ新聞などは英語発音を採用することが多いのではないか。

走行会中止

結局、昼には中止が決定されました。トンネルは冠水の恐れから通行止めに。コースを横切って退場することになりました。

また来年!!


上の座学で話題にもなった通り、今年の鈴鹿8耐は、昨今、サーキットで厳しい目で見られている「漏れたオイルで路面を汚す」問題を改めて提起することになりました。走行会レベルでも、オイル漏れに対する対応は、本当に厳しく見られていると肌身に感じるところです。

レース史上、オイル漏れで起きた事故といえば、筆頭に挙げられるのは、有名な「モンツァの悲劇」でしょう。1973年5月20日、モンツァ・サーキットで開催された世界GP・250㏄クラス決勝は未曽有の大惨事の現場となったのですが、この史実は日本ではほんとんど知られていない印象です。

まずは事故の当事者である「レンツォ・パゾリーニ」と「ヤーノ・サーリネン」についてご紹介したいと思います。二人は正真正銘のトップライダーでありました。

レンツォ・パゾリーニ

1938年イタリア・リミニ生まれ。4人兄弟の次男で、父マッシモはレーサー上がりのメカニックであった。1958年からモトクロスレースを始め(20歳)、まもなくロードに移行した。


イタリア国内選手権をアエルマッキ175でデビュー(24歳)。

1962年 デビュー戦


アエルマッキのワークスライダーとしてGP250cc、350cc。500ccクラスに参戦(27-28歳)。しかし単気筒のアエルマッキでは、MV、ホンダといった多気筒マシン相手に苦戦を強いられるしかなかった。

1965年 マロリーパーク


1966年のマン島TTのクラッシュで選手生命を絶たれたタルクィニオ・プロヴィーニの後釜としてベネリに移籍する。GP350㏄クラスで総合8位を得た(29歳)。

1967年 マン島 セニアTT 500cc (DNF)


GP500㏄クラスで総合12位、350ccクラスで総合2位、250㏄クラスで総合6位となった(30歳)。

1968年 マン島 ジュニアTT 350cc (2nd)

1968年 マン島 ライトウエイトTT 250cc (2nd)

パゾリーニはスリリングなライディング・スタイルからファン人気が高かった。しかし、彼のライディングは見た目ほど無謀なわけではなかった。マイク・ヘイルウッドは、ウエット・コンディションにおけるパゾリーニの強さをして、彼を「アンビータブル」と呼んだ。

生涯のライバルとなったアゴスチーニは「ブレーキング技術が優れていて、もし私がベネリよりパワフルなMVに乗っていなかったら、どうしていたものか・・・」と評した。

パゾリーニ(とアゴスチーニ)を
応援する熱狂的ファンたち

彼はチャンピオンとなるにふさわしい速さを持っていたのだが、マシンに恵まれなかった。本人も着実にポイントを稼ぐというタイプではなかった上、プロヴィーニ、ヘイルウッド、アゴスチーニ・・・そしてサーリネンといった手練れらが、その時々に彼の前に立ちはだかり、煮え湯を飲まされ続けていた。


ベネリはGP250㏄クラスに専心した。パゾリーニは3勝したものの、それ以外のポイントは取れておらず、総合4位に終わっている(31歳)。

1969年
ケル・キャラザース / レンツォ・パゾリーニ

この年、チームに新規加入してきたケル・キャラザースも同じ3勝だったが着実にポイントを稼ぎタイトルを獲得している。パゾリーニにはひどく応えた事実であったであろう。


この年から、GP250㏄クラスは2気筒までという制限がかかり、4気筒のベネリは出場できなくなった。ベネリは350ccクラスに専心し、ケル・キャラザースは総合2位、パゾリーニは総合3位でシーズンを終えている。(32歳)。

70年代に入ると、GP250㏄/350㏄クラスはヤマハが2ストロークエンジンを武器に圧倒的強さでレースを支配するようになっていた。パゾリーニは、1970年シーズン終了をもって、長年苦楽を共にしてきたベネリを離れ、2ストエンジンを開発していた古巣のアエルマッキ=ハーレー・ダビッドソンへの移籍を決める。

念願の2ストエンジンを手に入れた!


パゾリーニは1971年シーズンを新型2ストエンジン開発に使い、GP250ccクラス総合28位で終わった。最終戦スペインでようやく5位を得るに至っている(33歳)。

1971年 スペインGP 250cc クラス5位


開発の労が実り、GP250ccクラスではサーリネン(ヤマハ)に1ポイント差で続く総合2位、

1972年 250ccクラス総合2位

350㏄クラスではアゴスチーニ(MVアグスタ)、サーリネン(ヤマハ)に続く総合3位となり気を吐いた(34歳)。

1972年 350ccクラス総合3位

来る1973年シーズンは、35歳ベテランの域に達した「永遠の二番手」、「無冠の帝王」パゾリーニにとって正念場であった。

ヤーノ・サーリネン

1945年フィンランド・タルク生まれ。1961年からアイスレースを始め、初レースはセンチュリ・プフ150㏄で2位に入賞した(16歳)。1965年に250㏄クラスで国内チャンピオンとなる(20歳)。


1967年にロードレースに転向(22歳)、1968年に地元イマトラでグランプリ・デビュー。センチュリ・プフ125を駆り11位となった(23歳)。1969年にプフで125㏄クラスの、ヤマハで250㏄クラスの国内チャンピオンとなっている(24歳)。

彼はタルク工科大学で機械工学を学びながらレース活動を続けていた。大学の成績もよく、4か国語を習得した俊才であった。


ヤマハでGP250ccクラスに参戦開始。大学での卒業試験のために後半3戦を休場したにもかかわらず、総合4位となった(25歳)。

1970年
ハンドルの垂れ角に注目


晴れて大学を卒業すると、フィンランドのヤマハ輸入代理店アルビドソンのサポートを得られるようになり、GP250㏄、350㏄両クラスにフル参戦を開始する(26歳)。

この頃のサーリネンは、グランプリ・サーカスにあまたいるメカニック兼ライダーというレース資金が不足しがちなプラベーターの一人に過ぎなかった。

しかし、強力な協力者を有していた。妻のソイリ・サーリネンである。

VWヴァンのドアに描かれたスヌーピーが
ヤーノのマスコット・キャラクターであった

ヤーノといえばソイリ、というくらい二人はパドックで有名なカップルだった。二人は10年ほどの交際の末、1971年春に結婚したのだが、ソイリは、ヤーノの片腕として、グランプリを転戦する際して考えられるすべてのことを支えていた。

GP350㏄クラスでは、第7戦チェコで早くも初勝利を果たす。第11戦イタリアでも2勝目を挙げ、350㏄クラス総合2位となる。250㏄クラスでは第12戦スペインで1勝を挙げ、総合3位となっている。

ちなみにこの年、50㏄クラスもクライドラーで走っている。総合12位であったが、イタリアで6位、スペインで2位を得ていることは特筆に値する。器用な男であった。

さらにちなむと、あのバリー・シーン(画像右端)は、駆け出しの頃、サーリネンのチームメイトとしてクライドラーの50㏄でグランプリを走っていた。


新進著しいサーリネンは、シーズン後半に入ると、ファクトリー・サポートを受けるプライベーターの一人に選ばれた。当時のヤマハの市販レーサーは空冷であったが、サーリネンには水冷のスペシャル・エンジンが与えられることになった。(相変わらずのハンドル垂れ角である)

ファクトリー・サポートを得たサーリネンは、GP250㏄クラスのチャンピオンに輝く(総合2位はパゾリーニ。2人はたった1ポイント差であった)。

350㏄クラスではアゴスチーニに次ぐ総合2位となる(総合3位はパゾリーニ)(27歳)。

ベネリからのアプローチ

パゾリーニを失ったベネリは、サーリネン獲得に動いていた。1972年の夏、サーリネンはモデナサーキットでベネリをテストしている。

そこで好感触を得たベネリとサーリネンは、8月20日にペサロで行われたノンタイトルの公道レースに出場している。350㏄および500㏄両クラスにおいて、MV駆るアゴスチーニを下して優勝した。

1972 Pesaro 500cc

1972 Pesaro 350cc

さらにベネリがマシンを持たない250㏄クラスでは、ヤマハに乗って、パゾリーニを破って優勝した。

サーリネンが、いささか勝ちに見放されているベネリで、王者アゴスチーニ駆る無敵のMV3気筒を、2クラスに渡って倒したことはちょっとした偉業として注目された。

ベネリとの蜜月?

サーリネン夫妻がデトマゾ・パンテーラに乗っている。これはベネリとの蜜月時期にベネリ・オーナーであったデトマゾから貸与を受けたものである。

ちなみに同じ車にアゴスチーニが乗っていたときもある。

ベネリ・トルネード650にまたがるサーリネン。非常に珍しいショット。

デトマゾはモト・グッツイも所有しており、サーリネンもテストを行っている。(中央のスーツを着た男性は著名なリノ・トンティ)

サーリネンはモト・グッツイはお気に召さなかったようだ。

しかし結局のところ、サーリネンはベネリと契約することはなかった。彼はチャンピオン防衛のためにGP250㏄クラスを走りたかった上、来シーズンよりワークス態勢で500㏄クラスに参戦するというヤマハからお声が掛かったからだ。


ヤマハがグランプリにおいて1969年以来休止していたワークスチームを再結成すると、そのエースライダーに抜擢された。(金谷秀夫がチームメイト)

新型YZR500(0w20)のテストのために来日している。

サーリネン、破竹の勢いで連戦連勝

ワークスチームのファーストライダーという万全な環境を得た1973年は、サーリネンの才能が大きく開花した年だった。

AMAグランドナショナル選手権、緒戦のデイトナ200(3月11日)に遠征。水冷の新型エンジンを持つTZ350で並み居る大排気量車を下し優勝。(ヤマハのデイトナ2連覇)

続くイモラ200(4月15日)でもTZ350で昨年の覇者ドゥカティ750SSを下し優勝。

グランプリが開幕すると、第1戦フランス(4月22日)および第2戦オーストリア(5月6日)とも500㏄クラスで2連勝した。第3戦西ドイツ(5月13日)はコースレコードを記録するが、チェーン切れで惜しくもリタイヤ。サーリネンにとってもヤマハにとっても500㏄初挑戦の年であり、快挙と言えた。(金谷も第1戦は3位、第2戦は2位と好調であった)

鉄板の250㏄クラスでは、第1戦から第3戦まで3連勝を果たしている。(金谷はすべて2位)

1973年5月20日 世界GP第4戦イタリア・モンツァサーキット

第3戦までを終え、250㏄クラスでは、サーリネンが破竹の勢いで3連勝を決めたの対し、パゾリーニは第1戦に3位で表彰台に乗ったのみ。第4戦はパゾリーニの地元イタリア、モンツァ。昨年サーリネンを制して優勝した地であり、今年も一矢報いたい気分であっただろう。

さてさてレースの行方は・・・と言いたいところだが、結果から先に言ってしまうと、250㏄のレースは決勝スタート後に無効となり、開催されなかったものとされている。ゆえに公式記録は残されておらず、予選結果も残されたスタート画像から判断するしかない。

[1列目5人]
#38 ディーター・ブラウン
#9 チューボ・ランシボリ
#2 レンツォ・パゾリーニ
#5 金谷秀夫
#3 ヤーノ・サーリネン
[2列目4人]
(#32 ロベルト・ガリーナ?)
#4 ボリエ・ヤンソン
#39 ジョン・ドッズ
#21 マリオ・レガ

スケジュールからやや遅れて午後3時16分、250㏄決勝がスタートした。ディーター・ブラウンが好スタートしホールショットを獲った。パゾリーニ、サーリネン、金谷、マリオ・レガの順でそれに続いた。

メインストレート途中の第1シケイン「ヴァリアンテ・デル・レッティフィロ」は前年から存在していたが、2輪レースでは使われておらず、第1コーナー「カーヴァ・グランデ」は200㎞/h以上で進入する超高速コーナーであった(コーナリング中のトップスピードは250㏄クラスで240㎞/hに達した)。しかし、構造的に危険なコーナーとしても知られていた。路面の舗装状態が悪い上、エスケープゾーンがほとんどなかった。コース脇すぐにガードレールが張り巡らされており、申し訳程度にストローバリアが置かれているだけであった。

そして最悪の事故はスタート直後のカーヴァ・グランデで起こった。

ディーター・ブラウンに続き1コーナーに進入していったパゾリーニのバイクが、突如、スライドを起こす。パゾリーニのスリップストリームに入っていたサーリネンは失速したパゾリーニのバイクに行く手を阻まれ転倒してしまう。

事故状況を残された画像から類推してみよう。

すでにパゾリーニ(P)本人はストローバリアに突っ込んでしまっているが、振り落とされたサーリネン(S)と彼らの2台のバイク(#2、#3)は、もつれ合いながら路面を滑っている。

金谷秀夫(#5)、マリオ・レガ(#21)はラインを変更してトラブルを交わすことができた。ディーター・ブラウン(#38)は後ろで何が起こっているか気づくことなくコーナーを通過している。

サーリネン(S)と2台のバイク(#2、#3)はパゾリーニ(P)を後ろに残したまま、さらに滑っていく。

2台のバイク(#2、#3)はガードレールに大衝突!サーリネン(S)は宙に舞っている。金谷(#5)は2台との衝突は避けられたものの、転倒はまぬがれなかった。

2台のバイク(#2、#3)はガードレールに跳ね返され、コースをふさいだ。サーリネンは(S)まだ宙に舞っている。#32は辛くも惨状を交わしてきたロベルト・ガリーナ。

上の画像のカラー版。

コースをふさぐヤマハとアエルマッキHDに火が点いた!

後続のマシンも次々と事故に巻き込まれていった。サーリネンとパゾリーニの他、12ないし13名の多重クラッシュとなった。最終的なパゾリーニ(P)とサーリネン(S)の位置は興味深い。なお(H)は脱げてしまったサーリネンのヘルメットである。

クラッシュをうまくかわすことのできたディーター・ブラウン、マリオ・レガ、ロベルト・ガリーナ、チューボ・ランシボリらは無事フィニッシュラインまで戻ってくることができた。そのほかのライダーたちはコースを逆走してピットに帰った。その時の異常な状況の映像が残されている。

ガーヴァ・グランデのあたりから煙が立ち上っているのが、グランドスタンドから見える。

続々と逆走で戻ってくるライダーたち。

順走で周回していた#32 ロベルト・ガリーナ、#21 マリオ・レガが、フィニッシュラインに到着した。

#39 ジョン・ドッズが金谷を乗せて戻ってきた。

イベントの速やかな進行しか頭にないオーガナイザーは、レースの赤旗中止を渋ったが、混乱に嫌気がさしたライダーらがレースを放棄し、結局、レースは無効となった。250㏄の後に予定されていた500㏄クラスとサイドカーの決勝もキャンセルされた。

チャールズ・モーティマーは事故のあったカーヴァ・グランデを「大量殺戮の現場」と評した。

炎上したパゾリーニのアエルマッキHD。

金谷のヤマハもガソリンタンクから出火、炎上している。

粉々になったサーリネンのヘルメットの画像が残されている。ガードレールにぶつかって、跳ね返ってきたパゾリーニのバイクがサーリネンの頭部に直撃したのである。サーリネンの様子を見に駆け寄ったモーティマーの弁。「彼の頭部は事実上すべて失われていた。」

サーリネンが被っていたヘルメットのメーカーは・・・

「ボエリ」である。

BELLを被っていた時もあったのだが、BELLでもこの事故では粉々になってしまったのだろうか・・・

合掌。

サーリネンは即死だったと考えられているが、コース上に転がるパゾリーニはまだ息があったという。

彼は救護室に運ばれたが、そこで息を引き取った。

合掌。

パゾリーニが転倒した原因

パゾリーニが転倒した原因には2つの説がある。

公式発表では、パゾリーニのエンジンの焼き付きを原因としている。事故から20年後の1993年、イタリアの「Tuttomoto」誌が、リークされた当時の内部資料を公開した。パゾリーニのマシンのエンジンが分解されている。確かにピストンの焼き付きを確認できる。

しかし事故の目撃者の中には、(焼き付きなら後輪がロックするはずだが)パゾリーニのバイクはフロントタイヤが滑っていた、と証言する者もいた。

パゾリーニが残したスキッド痕。
アスファルトの状態がきわめて悪いことも分かる

より支持されているのは、コースに残っていたオイル説である。

直前に行われた350ccクラスのレースにおいて、残り2周となったところで3位を走っていたベネリのウォルター・ヴィラは、エキゾーストパイプからオイルを吹き出し始め、ピットインした。ピストンにトラブルが起きているようだった。チームはポイント獲得を狙って、そのまま走り続けるという無謀な判断を下した。地元びいきのマーシャルも、オイルを吐くヴィラに黒旗を振ることもなかった。結局、ウォルター・ヴィラは完走し、5位に入賞したのだが、コースには2リッターほどのオイルが撒き散らされた。その時のオイル処理が不十分だった、あるいは全くなされていなかったと言われている。

ヤーノ・サーリネン / ウォルター・ヴィラ

ライダーたちの証言

金谷秀夫

「私はスタート直前になって、コース上のあらゆるところにオイルが撒き散らされていることを知らされた。スタートは上手くいって、カーヴァ・グランデへの進入の直前にはヤーノと並んで走っていた。レンツォは半メートルほど先にいた。我々は一直線に並んでコーナーに進入すると、突然、レンツォのハーレー・ダビッドソンがスライドを始めた。ヤーノはどうすることもできなくて転倒した。私は自分のバイクを無理やり寝かせて、何とかアウト側に逃げることができた。私のバイクは、ストローバリアに突っ込み、火が点いた。ヤーノは始めコース外側で転がっていたのだが、最終的にはカーブの内側に横たわっていた。私はあの事故の瞬間を忘れられない。コース上にオイルラインを見たことも。」

ディーター・ブラウン

「スタートがうまくいった私はトップに立っていた。私はオイルのことを知っていたんだ。350㏄のレースを終えてきたばかりだったからね。数カ所に転倒の危険があった。私はいつもと違うラインを走ることにしたのさ。普段は6速240㎞/hでカーヴァ・グランデを走るのだが、5速で回った。私は事故は見ていないのだが、何かが起きたということを知らせてくれるような者は一人もいなかった。オフィシャルの誰かが旗を振るようなこともなかった。1周目を終え、フィニッシュラインを越えたとき、私は逆走してくるバイクに気づいた。そこで走るのをやめることにしたから、私はあの地獄の被害を受けることはなかった。もし私が2ラップ目に入ったとしても、警告するようなオフィシャルは誰もいなかっただろう。」

ヴィクター・パロモ

「パゾリーニのバイクがコースの外に飛び出していき、地獄の炎に包まれたたとき、私はボネーラの後ろを走っていた。ヤーノの姿を見かけることはなかった。自分が、どうやってあの火の中を抜け出せたのかは覚えていない。結局、転倒してしまったが。」

ジョン・ドッズ

「350㏄のレース中、すでにベネリのヴィラがコース上に撒き散らしたオイルで何回か滑っていたんだ。そのスポットはレコードライン上にあったから、ライダーたちは新たなラインを探っていた。レースが終わると、私はレース主催者に抗議しようとしたが、守衛によって無理やりオフィスから追い出されてしまった。しかし、オイルの噂はスタート前にライダーたちに知れ渡っていた。サーリネンも金谷から知らされていたはずだ。私はスタートに失敗したので、カーヴァ・グランデに進入した時、停止する余裕があった。まるで爆弾が炸裂した後のようだった。オフィシャルが何かしているのを見かけることはなかった。私が停止したコーナー内側にサーリネンが横たわっていた。白いレーシングスーツを着た彼が真っ赤に染まっているのを確認した。私は戻って、ブラウンにスローダウンするよう合図した。未だにオフィシャルは何もしていなかった。金谷をバイクの後ろに乗せ、ピットに戻って何が起こっているかを説明したんだ。誰も何が起きているかを分かっていなかった。もしも、我々が過去に要求していた通り、ガードレールが取り除かれていたら、事故があっても、ここまでの惨事にならなかったのは間違いないだろう。」

ボリエ・ヤンソン

「私はスタート直前になって、ドッズからコース上に多数のオイルがあることを知らされた。スタート直後は10位にいて、コースの真ん中あたりを走るヤーノを見ている。突然、彼はまわりを巻き込んで転倒したんだ。飛んできたガソリンタンクが私にぶつかり、私も地面に倒れこむことになった。レンツォについては何も知らないが、事故は路面のオイルで引き起こされたのは間違いない。」

チャールズ・モーティマー

「カーヴァ・グランデにフロントホイールを入れた時には、私は10位くらいの位置にいた。どうして、どうのようにして事故が起きたかは、私には分からない。路面のオイルも見ていないんだ。サーリネンはコーナーの内側に横たわっていた。私は傷つき倒れこんでいたヤンソンの救護をしたよ。」

ケント・アンダーソン

「私がドッズとバトルしていた350㏄のレース中、最終ラップでバイクがグリップを失うのを感じ始めた。煙が見えたのでスローダウンした。ドッズは私をパスすると、路面の黒い縞と我々の先を行くライダーを指さした。指先には煙を出しながらオイルを失っているベネリのヴィラがいて、彼は自分のオイルでリアタイヤを汚していたから、カーブでバンクさせられないでいた。レース後、ガレージに行ってサーリネンと金谷にそのことを知らせた。パゾリーニはオイルのことを知らなかったんじゃないかと思う。というのも、それが起こったのは彼がレースをリタイヤした後のことだったから。」

ジャコモ・アゴスチーニ

「確かにコース上にオイルはあった。不幸にも、350ccのレース後、私はパゾリーニを見かけることはなかったので、彼にそのことを知らせることはできなかった。350㏄のレース残り2周、ちょうどパゾリーニがリタイヤしてしまった直後に、私はカーヴァ・グランデで2回もスキッドを起こしたが、奇跡的に転ぶことはなかった。レンツォはコースが滑りやすいことを知らなくて、通常のラインを走ってしまったんだ。彼のハーレー・ダビッドソンは業火で燃えてしまったが、そうなった理由を、第1に初歩的なライディングミス、次に不意に発生した焼き付き、最後にブラウンを打ち負かそうとした過剰なまでの情熱といったものを排除して推測することはできない。」

チューボ・ランシボリ

「350㏄のラスト5周あたりで、私のバイクはスリップをし始めた。レースが終わると、ケント・アンダーソンがオイルで汚れたヘルメットをレース主催者に見せていた。私と同じ250㏄を走らなければならないケントは、コースを清掃するよう求めていたんだ。30分ほどの休憩があったが、ヤーノはスタートわずか3分前に準備を始めていた。私はところどころにオイル染みがあることは指摘しておいた。スタートは頑張らず、先頭集団と離れて走ることにしたんだ。ストレートが終わったあたりで、私は煙が立ち上っているのを見た。スピードを落として、燃え盛るストローバリア、散らばったバイクとそのパーツ、逃げまどったりコース上に横たわったりしているライダーたちの間をぬって走った。私は1周目を終えると、ピットに入った。私は、私と同じく何も知らないでいたソイリ(注:ヤーノの妻)に会った。ただただ沈黙の中、サイレンだけが鳴り響いていたことを覚えている。まもなく私とヤーノの共通の知人であるジョバンニ・ファンタジーニがやってきた。彼は口をきけない状態にあった。私はすべてを理解すると、目に涙があふれ出てきた。」

マリオ・レガ

以下はマリオ・レガが53歳(2002年)時の証言である。レガは、事故の原因はパゾのバイクがフロントタイヤのグリップを失ったことだと述べている。
 
「私は隊列の一番後ろにいたが、パゾリーニやサーリネンから数メートルしか離れていなかった。私はそこにいて、すべてを見ていた。当時、私はスクーデリア・ディエッメのヤマハ250に乗っていて、あらゆることが上手く進んでいた。私にとって3戦目のGPレースで、デビューは前年のイモラ、1973年シーズンはニュルブルクリンク(第3戦)から開始した。
 
モンツァに話を戻すと、金曜日のセッションは雨で、私は最速タイムをたたき出すことができた。土曜日はドライだったが・・・まだ2列目に残っていた。心臓の鼓動は高まるばかりだった。ビッグチャンスだ。これを逃すわけにはいかないと。
 
押し掛けスタートでは、ディーター・ブラウン、身長2メートルほどのドイツの野獣だが、長い手足を使って蒸気機関車のようにバイクを押して、先頭で飛び出した。次にパゾリーニが上手くスタートした。サーリネン、金谷、そのすぐ後に私、そして私の後ろにいたガリーナが続いた。我々の目の前にあるのは、カーヴァ・グランデという怪物だ。
 
モンツァのカーヴァ・グランデは怪物といっても、さして邪悪ではない。ほとんどの者にとって、問題は心理的なものだと言える。コース脇に生い茂った草木は実際より視覚的に近く見え、始めは不安にさせられる。アクセルは全開にしなければならないのだが、同時に、本能がそうするなと邪魔をするのだ。
 
私は、今自分がすべて上手くいっていることを実感していた。金谷に手痛い思いをさせるスピードを持っている。その時、私はこうも考えた。だめだ、自分は何を考えているのだ。彼はワークスライダーじゃないか。彼はすぐに私を抜き返すだろう。抜き差しの応酬になれば、チャンスをふいにしてしまう。アタックするな、そのままの状態でいろ、上手くやれ、と自分自身に言い聞かせた。わずかにアクセルを緩め、後ろに回った。
 
この考えが私の命を救った。というのも、まもなくカーヴァ・グランデの真ん中あたりでレンツォがスリップ・ダウンしたからだ。それ以降の感覚は普通の次元ではなかった。すべてがスローモーションで動くように感じ、注意深く物音を聞き分け、重要なことだけを選び取ることができていた。パゾリーニと彼のバイクが、たった2メートル幅しかない芝生を越え、ガードレールにぶつかった。その間も我々は走り続けていた。
 
重要なことだが、パゾリーニのバイクがスリップを始めたのはフロントエンドで、リアではなかった。これが転倒を引き起こしたきっかけだ。全ての悪夢は焼き付きが引き起こしたと言う人がいるが、それは真実ではない。仮に焼き付きがあったなら、リアホイールがホップしていただろうが、何も起きていなかった。転倒はフロントから始まっていた。
 
(ガードレールに)ドカンと撃突した後、ストローバリアが吹き飛び、バイクが跳ね返った。高さは低くなかった。バイクは我々に向かって飛んできた。レンツォのバイクがヤーノの顔面に激しくぶつかったとき、私と金谷は本能的にバイクから立ち上がっていた。
 
私はコーナリングの途中にあり、それを続けていた。その間中、私のスキルが私にブレーキを握らせることはなかった。私はどのようにやったのかは覚えていないが、以下のようにやりとげた。金谷と私は外に広がった。私が右で金谷が左だった。ガリーナは私の後ろにいた。私の左肩になんらかの破片がぶつかってきた。
 
私はヤーノがひどく負傷していることは分かっていたが、ブラウンは我々の前にいて、狂ったように車列を引っ張っていた。本能的に彼を追いかける気持ちが打ち勝ってしまった。金谷はもはやそこにいなかった。彼は間違った側に広がり転倒してしまっていた。最初の周回では、ブラウンは私とガリーナの前にいた。我々はメインストレートを突っ走っていったが、私たちに何かを知らせてくれる人は誰もいなかった。とはいえ、我々の後ろから誰もやって来ないのを見れば、なにかとてもシリアスなことが起きているということは分かった。

(1周回って再び)カーヴァ・グランデに着くと、黙示録があった。生気を失った人たち、転倒したバイクとその残骸がいたるところに転がっていた。身を凍らせるような沈黙、悲劇の恐怖。しかし 呪われた本能で私達3人は慎重にスラロームしながら前に進んだ。まわりはぐちゃぐちゃで、ほとんど別世界だった。ディーターが逆走で戻っていった。私は前に進むことにした。ガリーナは私をサポートしてくれた。これっきりでもうたくさんだと思った。

われわれが3回目のカーヴァ・グランデに着いたとき、救急車と消防車が来ているのを見た。この時、永遠に友人を失ったと確信した。グラントとモーティマーが叫び声をあげていた。15人ものライダーが転倒して怪我をしていた。私は藁束の間にヴィラの白いヘルメットを見た。私たちは初め、ウォルターが死んだ、と教えられた。

あの呪われたレースを経験したベテランたちは、いまだに『73年のモンツァ』について語り合っている。」

「1973年モンツァ」を目撃した日本人たち

バイカーズステーション誌の巻末に連載されていた「無事、これ名人。」(古賀直賢・著)の第81回(2001年2月号)に「1973年モンツァ」についての言及があり、現場に(ヤマハチーム以外の)複数の日本人がいたことが書かれている。

(以下抜粋) 鹿島信之氏の話によると、
このモンザに行ったのは、2カ月ほどの予定で
ヨーロッパ旅行を計画して、イタリアに入った
ばかりのときだったそうである。1973年の当時、
鹿島氏はまだレース界のどこにも、友人、知り
合いを持たなかった。とりあえずモンザに着い
て地元の人に聞くと、サーキットの入り口のす
ぐ近くにホテルがあるというので、そこに宿を
とった。夕食にレストランに行くと、ひとりで
食事をしている日本人がいた。その人が自分の
テーブルに来ませんか、と声をかけてくれたの
で行って話をすると、金谷秀夫選手だ
った。金谷選手はアイスクリームを注文しよう
としていたが、なかなか通じない。そこで鹿島
氏がジェラー卜というイタリア語で助けを入れ
ると、金谷選手が大いに喜んだという。

 食事のあと、ふたりでバーで話をしていると、
次々とレース関係者がやって来た。その中に
ダンロップタイヤのレーシングサービスの人が
いて、その人が鹿島氏を翌日からパドックの中
につれていってくれた。知り合ったばかりで、
ただの旅行者であった鹿島氏を、じゃぁ私が
つれていってあげよう、一緒に来なさい、と
言って、まるでスタッフの一員のような待遇
をしてくれたのである。

 そこでダンロップの人について、パドック
の中をあちこち見て回っているときに、
横山(篤)、鈴木(健夫)の両氏と
会うことになる。やがてその輪に宮川秀之
の一家が加わる。鹿島氏の記憶によれば、
宮川氏は家族全員で作ったオニギリをたく
さん抱えてきていて、皆でそれをごちそう
になりながら話をしたそうである。プロター
岡部和生氏は、この日モンザに
行っていない。

 日曜日のレースは悲惨なものとなった。
250ccクラスで多重衝突が起こり、レンゾ・
パゾリーニとヤーノ・サーリネンが死亡、
ウォルター.ヴイラが重傷を負った。イタ
リアGPはそれまで9月に行われていたが、
この前年の1972年から5月に開催されるよ
うになっていた。そしてこの日、1973年5月
20日は、モンザの最も悲しい日として記憶
されることになったのである。

 レースはそこで中止された。観客たちは
肩を落として家路についた。だれもひと言
も話をしようとしなかった。無言の群衆が、
ただ黙々と歩いていた。あの話好きのイタ
リア人たちが、だれひとり声を出そうとし
ないんです、それでみんな悄然として歩い
ていくんですよ。あれはやっぱリー種異様
な雰囲気でしたねえ、と鹿島氏は語ってい
る。(抜粋終わり)

鹿島 信之

横山 篤 / 鈴木 健夫
1970年頃、ピアッジオの技術部門には日本人3人組がいた。彼らは、トーハツ(東昌)、ブリヂストンと、各社がオートバイ製造から撤退する度に移籍し、ピアッジオにたどり着いていたのだ。

その3人のうち横山 篤、 鈴木 健夫の2名が、ちょうどこの事故が起きた頃にスカウトされ、カワサキに移籍を果たしている。

鈴木氏は、カワサキUK・GPチームの監督となり、GPにおけるカワサキ黄金期の立役者となった。(そう、「KEN SUZUKI」その人である!)

鈴木氏は1983年、カワサキのGP撤退を機に退社し、軽井沢でのペンション(知る人ぞ知る「シルバーストーン」)経営に転身した。

3人組のリーダー格だった横山氏は、カワサキUSAでも開発部門に勤めた。しかし、その転職は失敗に終わった。横山氏のやり方は、スマートなUSの職場環境にはそぐわず孤立した。1984年、失意の中、カワサキUSAを退社、古巣のピアッジオに戻っている。

宮川 秀之
宮川氏は1960年代、イタリアのカロッエリアと日本の自動車メーカーとの橋渡し役を果した。ギアから独立した「ジョルジェット・ジウジアーロ」は宮川氏と組んで「イタル・スタイリング」を設立した。イタル・スタイリングは、言わずと知れた「イタルデザイン」の前身となった。

岡部 和生
タミヤで、伝説的プラモデル、1/12 HONDA RA273(1967年)、1/25 タイガーI型戦車(1969年)、1/6 HONDA CB750Four(1970年)を設計した後、イタリアに渡り、プロターに押し掛け、紆余曲折の末、社員に採用されたという剛の人。

事故を報じる雑誌、新聞

ヤマハの広報誌(英文/和文)

エース、サーリネンを失ったヤマハワークスは、追悼のため、この年の第4戦以降のレースへの出場を見合わせることになった。

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