2017/02/04 横浜オートモデラーの集い (2/2)

ルノー 5ターボ

ルノー メガーヌ

パン柄に塗られたルノー 4

ルノー 4パリジェンヌ

パナール ディナZ1

シトロエン アミ6

シトロエン XM
クレイモデルでしょうか?

プジョー 905

プジョー 908 HDi FAP

ブガッティ・・・でしょうか?

フェラーリ 330P4

フェラーリ 250GTO

フェラーリ 250GT カリフォルニア・スパイダー

ディーノ 246GTB

NART フェラーリ 365GT4BB IMSA
1977年のルマンのIMSAクラスを走り総合16位(クラス5位)に入ったマシン。マルイの伝説的な1/24モデル。

NART フェラーリ 512LM

フェラーリ 512BB
上のレーサーのベースマシン。

フェラーリ 599XXかな?

フェラーリ FXX K

FIAT 131 Gr.5

アウトビアンキ A112アバルト

FIAT ランアバウト

ランボルギーニ

ランボルギーニあたりのクラシック・トラクタでしょうか。

アルファロメオ

超絶再現の 1/12 ポルシェ 956

ポルシェ 917

ポルシェ 935

ポルシェ 911

ポルシェ 914

ポルシェ 918

BMW 2002

BMW 3.5CSL Gr.5

BMW 320i Gr.5 – Roy Lichtenstein

BMW M1 Gr.4

BMW M3 Gr.A

BMW i8

ZAK SPEED

往年のバンダイ 1/16 クラッシックカーシリーズの1906年型メルセデスとみました。

NASCAR

COYOTE

オースチン マイナー

ジャガー XK-E

ジャガー XK120

マクラーレン F1

1963 AC Cobra 289 LeMnas

ルマンに初参戦したコブラ。空力的な対策で後付けされた特徴的な形状のハードトップで有名です。

このコブラはワークス・マシンでしたが、シェルビー・アメリカンからのエントリーではなく、コブラに車体を提供したACカーズにチーム運営が任されていました。(ボディカラーがグリーン系なのは英国チームゆえ)著名な元レーサー、スターリング・モスを監督に据えたワークス・チームは、初参加ながら6台のフェラーリに次ぐ総合7位に食い込むという健闘を見せました。



1964 AC Coupe A98

翌1964年には、ACカーズがコブラ・ロードスターに独自のクーペボディをかぶせ、ルマンを走らせています。(この年、シェルビー・アメリカン・チームもデイトナ・クーペをルマンで走らせています)



クーペが1/24、ロードスタが1/32でしょう。

ここで大定番のコブラについてご紹介いたします。

 
「コブラ」は、軽量でハンドリングに優れた英国ACカーズの「エース」のエンジンルームに、大排気量のフォード製V8エンジンを押し込むことで生まれた。「キャロル・シェルビー」の発案であるが、同様のユーロ・アメリカン・ハイブリッドカーは、コブラ以前にもゴードン・キーブルなどが存在している。しかし、これほどまでに成功した例はコブラ以前にも以後にもない。

キャロル・シェルビー

テキサス出身のキャロル・シェルビー (Carroll Shelby) は、戦時中は軍のテストパイロットを務め、戦後は故郷で養鶏場を営んだりしていた。1952年5月、シェルビーは友人のMG-TCを借りてレースに出る機会を持ち、初レースを初優勝で飾ると、以後順調にレーシング・ドライバーとしての才能を開花させていく。国内スポーツカーレースを席巻した後、レースの本場ヨーロッパに渡りF1に参戦するほか、1959年のルマン24時間レースではアストンマーティンのワークス・ドライバーとして総合優勝を果たしている。

1959年ルマン24時間優勝
(ドライバー・シートの人物がシェルビー)

1960年のシーズンを終えると、自身の心臓病を理由にレーサー稼業から引退したシェルビーは、西海岸のスポーツカーレースのメッカ、リバーサイドでレーシングスクールの経営に勤しむ中、ヨーロッパ製スポーツカーに匹敵する高性能車をアメリカで製作するという構想を温めていた。(当時のアメリカ製スポーツカーといえば、コルベット位しか存在していなかった)

Carroll Shelby School
of High Performance Driving

AC エース

構想を実現する機会は早くもやってきた。

英国のACカーズ製スポーツカー、エースは、ブリストル製2.0L直6エンジンを使用していたが、1961年、ブリストルがその生産を止めることを決定したため、新たなエンジン供給元を探す必要があった。それを耳にしたシェルビーは、自身の理想とするスポーツカー製作の絶好の機会と考え、ACカーズにフォード製エンジンの提供を仲介することを申し出る。

1953-63 AC ACE

1962-63年 コブラ 260 (Mk.I)

話はトントン拍子に進み、エースには英フォード製2.6L直列6気筒が積まれることが決まった。合わせて、シェルビーはACから、エースに米フォードの大排気量V8を積んだ車両製作の約束も取りつける。

1961年、アメリカから英国に送られた260(4.3L)・V8エンジンは、ACカーズの手によって、強化されたエースのフレームに積まれ、完成車となってアメリカに送り返された。これが「コブラ」の第1号試作車である。

第1号試作車をドライブするシェルビー。
当初、ボディはアルミ地のままであった。

ROAD & TRACK 1962年9月号
第1号試作車はディーン・
ムーンの工場で黄色に塗られた

結局、コブラの生産は、シェルビーの工場(シェルビー・アメリカン)が受け持つことが決まり、エンジンとトランスミッションはフォードから、フレームとボディはACカーズから送られてくると、シェルビー・アメリカンがそれらを組み立てるという体制が出来上がった。

コブラの初レース

コブラの記念すべき初レースは1962年10月のリバーサイド3時間だった。まだSCCAの公認要件(生産台数)を満たしていなかっため、XP(eXperimental Production)クラスでの出走であった。

#98 Cobra 260 driven by Bill Krause

レース自体は、後輪ハブの破損でリタイアに終わったが、GM本社の息のかかった新型コルベット(C2)を突つきまわすことには成功した。(C2コルベットもこのレースがデビュー戦であった)


コブラのポテンシャルを垣間見たシェルビー・アメリカンの連中は歓喜し、GMの連中といえば、大本命の新型コルベットがレースを制したものの、強力なライバルの出現に慌てふためく結果となった。

コブラのレース初優勝

初優勝は、1963年2月にリバーサイドで行われたSCCA選手権であったが、これは260モデルの最初で最後の勝利であった。というのも、コブラのエンジンはまもなく289に積み替えられることになったからだ。

#198 Cobra 260 driven by Dave MacDonald

1963-65年 コブラ 289 (Mk.II)

フォードが260エンジンのボアを0.5インチ広げた289(4.7L)エンジンを出すと、コブラのエンジンは289に変更され、Mk.II となった。


スティーブ・マックイーンは
289コブラのオーナーだった。

コブラのルマン初陣

1963年、シェルビーはコブラ Mk.IIでFIAのGTクラスの公認を取得すると、FIAが統括する国際レースに参戦を開始した。メインターゲットはフェラーリが無敵を誇っていたルマン24時間であった。

1963年6月のルマンに初出場したコブラは2台で、1台はACカーズが率いるワークスチームのゼッケン3。キャロル・シェルビーはルマンに精通したACカーズにワークス・チームの運営を任せた。著名な元レーサー、スターリング・モスを監督に据えたチームは、6台のフェラーリに次ぐ総合7位に食い込むという健闘を見せている。

#3 Cobra 289 driven by Peter Bolton / Ninian Sanderson

もう1台は、ワークスサポートを受けたディーラー系チームのゼッケン4のマシンであった。(エンジントラブルで117周でリタイヤ)

#4 Cobra 289 driven by Peter Jopp / Ed Hugus

コブラのFIAレース初優勝

「ルマン仕様」のコブラは、1963年9月のブリッジハンプトン500㎞で優勝を飾った。これはコブラにとって、FIA統轄下のレースにおける初優勝となった。

#99 Cobra 289 driven by Dan Gurney

以降のコブラ Mk.IIの活躍は枚挙の暇はない。

1965-67年 コブラ 427 (Mk.III)

1964年から、より大排気量エンジンを持つコブラの開発が始まった。初期には、289(4.7L)に代わるエンジンとして、390(6.4L)エンジンが選ばれていた。


前後ともチルト式カウルで試作されていた。


結局、427(7L)エンジンが正式採用され、コブラ 427(Mk.III)として1965年1月に発表される。


Cobra 289 [LH] / 427 [RH]

427のFIA公認取得に困難が待ち構えていた。当初、427を289の正常進化モデルとして認可させるつもりでいたが、FIAはその申請を却下した。289と427は排気量だけではなく、フレームのパイプ径も拡大されており、サスペンション形式も異なっていた。却下は当然と思われた。

Cobra 289

Cobra 427

正攻法の手段として、427モデルを連続12ヶ月間で100台を生産し、新規に公認を取ることになった。しかし、その生産台数はわずか51台に留まり、公認取得は失敗に終わる。規定の100台を作れなかった理由として、当時のシェルビーがヘンリー・フォードII世肝入りのフォードGTプロジェクト(後述)に忙殺されていたことのほか、コブラ 427の販売が上手く進まず、財政的な問題から製造が中断されたため、とするものがある。


シェルビーは、上記50数台を427S/C (Semi Competition = 準レース仕様)と命名し、市販した。以降は調達の難しいレース仕様の427エンジンに替えて、エンジン・チューン度の低い(価格も半額以下の)市販車用428エンジンを積むことになった。

1969年までに996台のコブラが生産されたが、その内訳は、260モデルが75台、289モデルが606台、427(428)モデルが315台となっている。

1963-64年 キングコブラ

GTクラスのコブラに加え、純レーシングマシンの開発にも着手している。GMのバックアップを受けプロトタイプクラスで活躍するシャパラルを直接的なライバルとしたものだった。

コブラ・ロードスターではシャーシにAC製を選んだように、今回もシャーシを社外に求めた。白羽の矢が立ったのは1961年式クーパー・モナコであった。289エンジンをミッドシップに積んだモナコはキング・コブラと命名され、8台が作られた。



GTクラスでは大成功していたシェルビーも、プロトタイプクラスは勝手が違ったようで、キングコブラのレース活動はパッとせず、2シーズンで終了した。(ただしシェルビーのプロタイプクラスでの活動は、後年、まったく違った形(フォードGT)で開花する)

Laguna Seca in 1963

Laguna Seca in 1964

1964-65年 コブラ・デイトナクーペ

1963年のコブラ・ロードスターでのルマン参戦で懸案となった空力的な問題を改善するために、ロードスターのシャーシに新たにデザインしたクーペボディを載せることが決定された。当時のFIA規定ではGTカーのボディ形状の変更は自由とされていたたため、全く違うクルマにしか見えないクーペモデルにも、ロードスターの公認が適用されたのであった。

1963年
スーツ姿でドラボジを検分するのはシェルビー・アメリカンの伝説的テスト・ドライバー兼レーサー、ケン・マイルズ。


ボディデザインは日本にも縁の深いピート・ブロック



1964年
1964年1月にプロトタイプが完成すると、お膝元のリバーサイドでテストが行われた。最高速度は 186 mph (298 km/h) を示し、ロードスターよりも 20 mph (32 km/h) ほど上回ることが確認された。


1964年2月のデイトナ2000kmでレース・デビューしたため、デイトナというニックネームが付けられた。


1964 Daytona Continental 2000km

デビュー戦の結果は、ピットでの出火で途中リタイアに終わったが、始終レースをリードするなど、ポテンシャルの高さを発揮した。


デイトナの量産はイタリア・モデナのカロツェリア・グランスポルト(Carrozzeria Gransport)に委託された。シェルビー・アメリカンで作られた1台とグランスポルト製5台の合計6台のデイトナが世に出たが、そのすべてが現存している。


1964年6月のルマン24時間レースは宿敵フェラーリ250GTOを下し、GTクラス優勝(総合4位)を果たした。


ルマンではフェラーリに勝ったものの、1964年のGTクラスのシリーズ・チャンピオンは、僅差でフェラーリに奪われてしまう。

コブラ 427 スーパークーペ

1965年シーズンは、デイトナクーペのベースモデルをコブラ 427に変更し、そのボディ・デザインもさらに空力的に洗練されたものにすることが決定するが、コブラ427の稿で書いた通り、427はFIAの公認取得に失敗したため、必然的にスーパークーペの計画も流れてしまった。

すでに半完成状態にあったスーパークーペは、紆余曲折の末、とあるコレクターの下で見事完成まで漕ぎ着けられ、1981年のイベントで初公開されている。



1965年
1965年も引き続き289モデルが使用されることになった。6月のルマンには、4台体制で出場するも3台がエンジントラブルでリタイアを喫する中・・・


唯一残った1台(11号車)が、GTクラス3位入賞(総合8位)した。


かようなポイントの積み重ねで、1965年のGTクラスのシリーズ・チャンピオンは、念願かなってシェルビー・アメリカンが獲得するに至った。

レース黎明期の日本に渡ったデイトナクーペ

1965年のレース・シーズンが終わると、6台のデイトナはすべて売却された。このうちの1台(VIN: CSX2300)が日本に流れ、黎明期の日本の重要なレースに出場している。

CSX2300は、1966年の第3回日本グランプリに突如デビューした。ドライバー兼オーナーの酒井正選手による出走で、エンジン・トラブル(ガス欠)で46周リタイヤで終わっている。


CSX2300の最後のレースは、1968年の第5回日本グランプリで、明珍和夫選手によるドライブで予選25位、決勝11位の成績を残している。その後、302エンジンに積み替えられ、オートマチック・トランスミッション仕様の公道走行車として余生を過ごした。この車両は紆余曲折の末、シェルビーの元に買い戻され、往年の姿に戻されている。

FORD GT

フォードによるルマン攻勢はアメ車黄金期の60年代に行われた。フォードのルマンへの興味は、当初はマーケティング活動の一環に過ぎなかった。しかし、それがフォードの君主「ヘンリー・フォードII世」とフェラーリの独裁者「エンゾ・フェラーリ」の個人的な確執までに昇華されたとき、自動車レース史・・・否、自動車史においてすら語り継がれる史実となった。

ライバル・フェラーリ攻略のために、ヘンリー・フォードII世が天文学的な予算を投じて準備させたプロトタイプ・レーシングカー、「フォードGT」はフォードの仕事であったが、キャロル・シェルビーは、最前線でワークスチームの指揮を取り、見事偉業を成し遂げる一端を担った。「コブラを作った男」は、さらに自らの名声に磨きをかけることになった。

1964年
フォードのルマン初参戦は1964年であった。フォードGT製作のために英国に設立されたFAV(Ford Advanced Vehicle)がワークス・チームの指揮を執った。参戦した3台のフォードGTは、予選ではそのポテンシャルを見せつけつつも、本番では3台全てがリタイヤで終わった。一方、フェラーリは1-2-3 フィニッシュを飾っている。フォードの惨敗であった。


フォードII世の失望を買ったFAVは、早くもその任を解かれた。代わりを果たすことになったのは、この年のルマンでコブラ・デイトナクーペを総合4位、GTクラス優勝に導いたキャロル・シェルビーであった。

1965年
シェルビーの下に送られたフォードGT は、メタリックブルーに白ストライプのシェルビーカラーに塗り替えられ、エンジンもオリジナルのオールアルミ255からコブラ用289に積み替えられるなど、シェルビー流改良が加えられた。

初戦はデイトナ2,000kmであった。参戦した2台とも幸先よく1位と3位に入賞した。2位と4位はコブラ・デイトナクーペで、シェルビーにとって完璧な勝利となったが、フォードGTにとっては初勝利であった。なんとフォードGTが初めて完走したレースでもあった。

Winner #73 Ken Miles / Lloyd Ruby

肝心のル・マンでは、昨年同様、6台全車リタイアに終わった。この年もフェラーリは1-2-3フィニッシュであったが、1位と2位はプライベーターの年落ちマシン 250LM、3位はGTクラスの275GTBであった。フェラーリ・ワークスの最新プロトタイプレーサー 330P2 の3台は全滅したことはフォードにとってせめてもの救いといえた。


これまで2回のルマン参戦は、フォードII世にしてみれば、莫大な費用をかけフェラーリの強さを宣伝してやったようなものであった。シェルビーはクビにはならなかったものの、フォードの重役陣から、ひとつの大きなプレッシャーを与えられた。翌年からNASCARにおけるフォード系有力チーム「ホルマン=ムーディー」がワークスチームに加わることになった。目標を同じくするライバルと競わされることになったのだ。

ホルマンの後ろでおどけるシェルビー

シェルビーはフォードの連中が、1950年代からフォードと関係があるホルマン・チームを自分よりも優遇するのではないかと疑心暗鬼だったということだ。シェルビーといえども、フォードII世と直接話をできる立場ではなかったが、ジョン・ホルマンはそうではなかったからだ。

ジョン・ホルマン(左) / ヘンリー・フォードII世(右)

1966年
今年が上手くいかなければ、来年はないことはフォード関係者の誰もが思い知っていたが、3度目の正直とはよく言ったもので、この年から全てがうまく回り始めた。

この年より2,000kmから24時間に伸ばされた初戦デイトナは、ルマンの予行練習にうってつけとなった。フォードGTは見事、1-2-3フィニッシュを果たした。なお、シェルビーチームは1位(#98)、2位(#97)、4位(#96)を、ホルマン・チームは3位(#95)を得ている。

1966 Datyona Continental 24H

必勝を期すルマンには、13台もの大量エントリーがなされた。ワークス・チームはシェルビー、ホルマン=ムーディ、英国のアラン・マンの3本立てで、各3台、3台、2台の計8台。すべて427エンジンのMkII。プライベーターからは計5台、すべて289エンジンでの参戦であった。


その物量作戦が功を奏し、ヘンリー・フォードII世が見守る中、フォードGTは1-2-3フィニッシュを果たした。1位(#2)、2位(#1)はシェルビーチーム、3位(#5)はホルマン・チームで、シェルビーは面目を保った。なお、13台のGT40のうち、最期までコースに残っていたのはこの3台だけであった


1967年
1966年の勝利がフロックでないことを証明するために1967年のルマンにも参戦することが決められた。

初戦のデイトナ24時間では前年のルマンでの意趣返しが行われた。フェラーリが見事な編隊で1-2-3フィニッシュを飾ったのだ。それも優勝した#23号車のドライバーの一人は、昨年フォードでルマン優勝を果たしたクリス・エイモンであった。

1967 Datyona Continental 24H

ちなみに昨年のルマンでフォードが行った、3台が一丸になってゴールするという「演出」がレース関係者に与えた影響はよっぽどのものであったのだろう。1967年のデイトナでフェラーリが行ったことはすでに書いたが、翌1968年のデイトナではポルシェ907が3台並んでゴールした。

1968 Datyona Continental 24H 1st-2nd-3rd

同じ1968年のデイトナでは、アルファロメオも5、6、7位であるが、並んでゴールしている。やってみたかったのだろう(笑)

1968 Datyona Continental 24H 5th-6th-7th

様々なプレッシャーを跳ね除け、シェルビー・アメリカンは、マーク4となったフォードGTを再びルマン総合優勝へと導いた。

優勝したダン・ガーニー、A.J.フォイト組はルマン初のオールアメリカンによる勝利であった。ダンは表彰台でシャンパンをぶちまけたが、これが世界で初めて行われたシャンパンシャワーであった。


ルマン2連覇で目標を達成したと判断したフォードは、1967年いっぱいでワークス活動の一切の終了を決定した。その後の活動はプライベーターに委ねられたフォードGTは、1968年、1969年もルマンで総合優勝を果たし、4連覇まで記録を伸ばしている。

1965-69年 シェルビー・マスタング

1964年、フォードは自動車史におけるアイコンとなるマスタングの販売を開始した。マスタングを仕掛けたフォード副社長リー・アイアコッカは、販促のためにマスタングを使って国内スポーツカーレースに参戦することをキャロル・シェルビーに依頼した。当初は、ラバから競走馬は作れない、とシェルビーは乗り気ではなかったというが、参戦初年の1965年に早くも SCCA Bプロダクションクラス優勝を勝ち取り、見事その大役を果たしている。

1966-69年 SCCA トランザムシリーズ

1966年、SCCA (Sports Car Club of America)は、車両規定をFIAのグループ2ツーリングカーの準拠させ、国際性持たせた4座セダンレースに国内チャンピオンシップを掛けることを公表した。これが現在まで続くトランザム・シリーズの始まりである。

シェルビー・アメリカンのマスタングは1966年、1967年のトランザム・シリーズの2リッター超のタイトルを獲得した。

1966年

1967年

1968年

1969年

しかし、1968年、1969年はロジャー・ペンスキー・レーシングのカマロが、圧倒的な強さでタイトルをさらっていった。

1969年10月5日のトランザム・シリーズ最終戦リバーサイドでキャロル・シェルビーはレース界からの引退を表明、シェルビー・アメリカンも解散した。偉大な歴史の終焉は極めてあっさりしたものだった。自動車ビジネスに嫌気がさしていたシェルビーはアフリカに新天地を求めている。

ちなみにペンスキーとシボレーの関係もこの年が最後となった。ペンスキーはAMCに引き抜かれたからである。シボレーはシャパラルを新たなパートナーに選択したのだった。

メーカーの販売成績に直結したトランザム・シリーズは、この後、ますます過熱していき、70年代に入って最高潮を迎える。

1965 GT350/GT350R

シェルビーの工場でセットアップされたホモロゲーション用マスタングが市販されることになった。

シェルビーは、この車両を手に入れる人は純粋にレースに使うと想定したのであろう、エンジン、トランスミッション、足回りの交換は当然のこととして、レースに不要な遮音材、制振材、ヒーター、パワーステアリングといった快適性に関わるパーツの一切、さらにはリアシートまでもが取り除かれていた。


純レースモデルのGT350RとGT350との違いは、FRP化されたフロントバンパーと、フロント以外の窓がアクリル化されただけであった。(GT350Rの”R”は”Racing”ではなく、”Raw”(生)を意味している)


この年、562台のGT350が世に出たが、うちRは36台であった。


1966 GT350 / 350H

GT350を求める人は、シェルビーが想定していたほどレース志向は強くないことが明らかになった。1966年モデルでは、レーシーなパーツはオプション化され、逆にオートマティックトランスミッションやエアコン、ラジオといった快適装備もオプションに加えられた。折り畳み式リアシートが装備され、ボディカラーも選べるようになっている。


この年、ハーツレンタルカーバージョン、GT350Hが設定された。レンタルは会員限定で、費用は「1日につき 17ドル + 1マイルにつき 17 セント」であった。


1966年モデルは2,380台が市場に出て、うち1,003台がハーツモデル、6台がコンバーチブルモデルであった。

1967 GT350 / GT500

ベース車両のマスタングがマイナーチェンジを受けたため、GT350もマイナーチェンジされた。この年から、428エンジンを積んだGT500が設定された。GT350で1,190台、GT500で2,051台の計3,241台が売られた。(シェルビーの工場では1日平均10台のGT350/500が造られていたことになる)


1968 GT350 / GT500-KR

「コブラ」の商標は、シェルビー・アメリカンからフォードに売却された。その売価はたった$1であった。GT350/500はフォードのカタログモデルとなり、フォードの生産ラインで製造されるようになった。

GT350/500は市場の要求から、硬派なスポーツカーから派手な見た目のスポーティカーへと変貌していく過程にあったが、ついにマスタングのグレードを表す記号に過ぎなくなった。


GT500-KRのKRは King of the Road の略(笑)

1969-70 GT350 / GT500

1969年、マスタングの高性能モデル、マッハ1とトランザムシリーズ用ホモロゲーションモデルのBOSSがデビューすると、GT350/500はフロントノーズのデザインが変えられたマッハ1になり下がった。GT350/500は世代交代の時期に来ていた。この年、GT350が約1,300台、GT500が約1,900台造られたものの、600~800台が売れ残ったため、年を越して1970年モデルとして売られている。

1969年10月、トランザムシリーズの最終戦を終えると、キャロル・シェルビーはレース界からの引退を表明する。GT350/500もこのモデルを最後にカタログ落ちとなった。

1968年 トヨタ2000GT

最後にシェルビーと日本のメーカーとの意外な関係で稿を締めたいと思う。

トヨタは2000GTの海外展開にあたり、USのスポーツカーレースに参戦することを模索していた。当初、日野を傘下に置いたことで、日野のレース活動を行っていたピート・ブロックのBRE (Brock Racing Enterprises) と関係ができ、BREに業務を委託する方向で話が進んでいた。

そこにキャロル・シェルビーが割って入ってきた。フォードとの関係が希薄になりつつある中、新たに日本のメーカーとでも関係を築いておきたいと考えたのだろう。当時の日本車は世界水準からまだまだといったところにあったが、トヨタはGM、フォードに続く自動車生産台数・世界第3位を誇るまでに急成長した有望株だったのである。

トヨタにしてみれば、世界的に著名なシェルビーからお声がかかったとなれば、BREから鞍替えしたくなるのも無理はない。さらにシェルビーが、BREのピート・ブロックはかつての部下であり、約束が反故となる話は私の方でつけておく、と言えばなおさらである。

3台の2000GTがシェルビー・アメリカンに送られ、1968年のSCCAのCプロダクションクラスに参戦すべく改変が行われた。ポルシェ911、トライアンフTR250など競合ひしめく中、2000GTはクラス4位でシーズンを終えるが、トヨタとシェルビーの関係は、その1年のみで終了している。


さらにいえば、フォードがルマン2度目の総合優勝を得て、ワークスチームの解散を決めた1967年、シェルビーは自身の名を冠したチリソースを発売している。これもフォード無き後のビジネスとして真剣に考えた末の選択だったのだろう。

シェルビー:シャパラル:チーター・モデル年表

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