トヨタ博物館 (1/8) 明治時代 (1868-1908) その1

1886(明治19)年 Benz Patent Motorwagen (レプリカ)

現在の電車のものと似たハンドル形状。

ラック&ピニオン構造のステアリング部。

クラッチ兼ブレーキレバー。前に倒すと1速に入り、直立でニュートラル、後ろに倒すとブレーキがかかります。

昇降用踏み台。

シートスにプリングを装備し、快適性への配慮もなされています。

単気筒エンジンは、ミッドシップに進行方向に寝かされて搭載されています。

車体中央に見える赤い筒がシリンダー。クランクシャフトはむき出し。

水タンク。シンリンダーに直接、接続されており、冷却水は水温の差による対流で循環しています。

ガソリンタンク。

キャブレター。

ガス量コントロールバルブ。現在の車ではアクセルペダルに相当します。

むき出しのクランクとはずみ車。はずみ車は始動時に使用します。

1次減速のベベルギア。出力の向きを鉛直方向から水平方向へ90度変更。水平軸上にカム山が2つ見受けられます。左側のカムは、吸排気バルブを制御するロッカーアーム、プッシュロッドを動かしています。

出力伝達プーリー&ベルト(2次減速)。

アウトプットシャフト。

最終減速部。チェーン&スプロケットです。

同じころ、日本は籠、力車の時代でした。

1894(明治27)年 Benz Velo

1898(明治31)年 De Dion-Bouton 1 3/4hp

1901(明治34)年 France Panhard et evassor B2

1902(明治35)年 USA Baker Electric

1902(明治35)年 USA Oldsmobile Curved Dash

1904(明治37)年 Yamaba Steam Car 1/5 Scale Model

 1904(明治37)年 Lanchester

1905(明治38)年 Swift 9HP

1907(明治40)年 Yoshida-shiki Takuri 1/5 Scale Model

1907(明治40)年 Rover 6HP

1908(明治41)年 Isotta-Fraschini Tipo I

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イソッタ・フラスキーニ

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イソッタ・フラスキーニは、チェーザレ・イソッタとヴィンチェンツォ、アントニオ、オレストのフラスキーニ三兄弟によって1900年に設立された、「ファスト」&「エレンガント」を売りにしたイタリアの伝説的な超高級車メーカーです。

1929年から始まる世界恐慌の影響をもろに受けたイソッタ・フラスキーは、高級車メーカーとしては事実上、1934年にその幕を閉じています(航空機エンジンとトラックの製造で会社は1949年まで存在しました)。

設立当初、ルノーからパーツを輸入して車体を組み立て、ラジエターグリルの意匠に独自性を凝らすも、ほとんどルノーと言ってよい完成車を生産していました。

1901年、自社オリジナルといえる車を造り出すようになります。

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1905年 ティーポ D
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自動車メーカーとして名声を得るには、著名なレースで好成績を残すことが早道と考えたチェーザレ・イソッタとフラスキーニ三兄弟は、ジュゼッペ・ステファニーニ技師を迎え入れると、1905年、レース専用車「ティーポD」を世に出します。

ステファニーニ技師による4気筒エンジンは先進的なOHCヘッドを持ち、17.2Lから100HP(5.8HP/L)を絞り出しました。

1905年 コッパ・フローリオ

ブレシアで開催された「コッパ・フローリオ」に、2台の「ティーポ D」で参戦するも、 2台ともリタイヤで終わっています。

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1907年 ティーポ I
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イソッタ・フラスキーニの最初の成功したレーシングカーで、上記トヨタ博物館の収蔵車がこの車です。

ティーポ I の7.9L・4気筒エンジンは、最高出力85HPを絞り出し、その比出力は、ティーポ D の5.8HP/Lから10.8HP/Lと飛躍的に向上しています。

1907年 コッパ・フローリオ

4台の「ティーポ I」が参戦し、ゼッケン「5B」が優勝を果たし、ゼッケン「5A」が4位、ゼッケン「5C」と「9A」はリタイヤという成績を残しています。

1907年 タルガ・フローリオ

ゼッケン「7A」「7B」「7C」「7D」の4台の「ティーポ I」が参戦。

「7D」が7位、「7C」が9位、「7B」が10位、「7A」がリタイアという戦績でありました。

1908年 タルガ・フローリオ

「7A」がついに優勝、「7C」が5位、「7B」がリタイアという戦績でありました。

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1908年 ティーポ FE / 1909年 ティーポ FENC
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ステファニーニ技師は、17.2L・100HPのティーポDエンジンの基本設計をそのままにスケールダウンを行い、18HPを発する 1.2L SOHC直列4気筒エンジンを造り上げます。

このエンジンを積むレーサーがFEで、チューンの度合いを変え1.32L・14HPとしたものが、公道仕様のFENCです。

1908年 フランス・グランプリ

7月のフランス・グランプリに出走した3台は、いずれもさしたる成功を収めることはありませんでした(8位、14位、リタイア)。

若き日の「アルフェーリ・マセラティ」(言わずと知れたマセラティ創業者の一人)がドライブしていることが特筆されます。

8th #59 Alfieri Maserati

14th #18 Vincenzo Trucco

DNF #41 Felice Buzio

ティーポ FEの洗練された設計は、当時のレーシングカーすべてに引導を渡す役割を果たすことになりました。

ティーポ FE を購入した「ライオネル・マーチン」と「ロバート・バムフォード」の2人は、これに英国製エンジンを積むと英国のレースで大活躍しました。このクルマが「アストン・マーチン」の始まりとなったのです。

ティーポ FE は当時のブガッティ車と酷似していたため、長らくエットーレ・ブガッティの作と考えられていましたが、現在、ジュゼッペ・ステファニーニがジュスティノ・カッタネオ技師の協力を得て設計したということが真相とされています。

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北米富裕層に愛された8気筒
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レースで名声を得たイソッタ・フラスキーニは、ヨーロッパの王侯貴族に支持されたロールス・ロイスやブガッティとは違ったマーケットを志向しました。それは、「第1次世界大戦」の特需によって北米で急成長した新興富裕層でした。

1919年 ティーポ 8

明確に北米の高級車市場を狙って造られ、それまでは大型高級車といえども4気筒エンジンが主流で、6気筒もまだ一部の採用に過ぎなかった中、一気に8気筒エンジンを採用することで、イソッタ・フラスキーニに最高級イメージを印象付けることに成功します。1924年までに約600台が市場に出るヒット作となりました。

ティーポ 8 のOHV直列8気筒エンジンは 5.9Lから 90HPを発しました。当時の常道として、シャシーのみで販売され、ボディ製作は社外のコーチビルダーに委ねられました。

1924年 ティーポ 8A

ティーポ 8 の後継「ティーポ 8A」は、エンジン排気量を7.4Lまで上げ、最高出力を110HPに強化したモデルです。さらなる高性能版として「S (Sport)」あるいは「SS (Super Sport)」のオプション設定がありました。

特筆すべきはシャシーに、ノーマル(3.7メートル)とショート(3.4メートル)の2種を用意したことで、重厚な「リムジン」から軽快な「スパイダー」まで、あらゆるタイプのボディが生み出されることになり、1931年までに約950台が市場に出、前作を越える大ヒット作となりました。

Tipo 8A Belvedere by Touring

Tipo 8A Spyder Flying Star by Touring

1931年 ティーポ 8B

8A のエンジンをさらにチューンし、出力を160HPまで高めたモデル。

ティーポ 8B シャーシの北米価格は約1万ドルで、V16エンジンを積む同年代のキャディラックより1,000ドル以上も高価でしたが、1929年に始まる世界恐慌は、このような贅を尽くした車を欲する顧客を壊滅させていました。

Tipo 8B Progetto Tip Top by Touring

Tipo 8B Roadster by Touring

かような混乱状況の下、ティーポ 8B の生産台数ははっきりせず、最低30台の生産は確認されていますが、82台とする情報もあります。

高級車市場からの撤退

「狂騒の20年代」と呼ばれた北米における未曾有の好景気にべったりと寄り添ったイソッタ・フラスキーニは、1930年代の「世界恐慌」の逆境を乗り越えることができませんでした。

1934年をもって高級車市場から撤退、イタリア独裁政権の求めに応じて、航空機エンジンやトラックの製造に専念することになります。

1938 Tipo D.80

1947年 ティーポ 8C モンテロサ

第2次世界大戦後、イソッタ・フラスキーニ社は、高級車メーカーへの復活を試み、大戦中に極秘裏に開発されていたという完全新設計の「ティーポ 8C モンテロサ」を、1947年10月のパリショーでデビューさせています。

フェラーリのV12エンジン設計で知られる「アウレリオ・ランプレディ」が設計した、半球形燃焼室を有し、120HPの最高出力を発する 3.4L OHV V8 軽合金製エンジンは、な、なんとリアにマウントされています。

6人乗りのシャーシには、ザガートによる4ドアセダン、トゥーリングによる2ドアクーペ、ボネスキによるコンバーチブルが架装されましたが、その生産台数はわずか5台ないし6台と言われ、量産には程遠いものでした。ブランド復活の試みに失敗したイソッタ・フラスキーニは、これをもって完全に終焉を迎えることになりました。

Tipo 8C Monterosa Sedan by Zagato

Tipo 8C Monterosa Coupe by Touring

Tipo 8B Monterosa Cabriolet by Boneschi

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ハリウッドのイソッタ・フラスキーニ
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イソッタ・フラスキーニは、サイレント時代の多くの映画スターたちに支持されました。イソッタ・フラスキーニを所有することは、成功の証として一種の流行だったのでしょう。ここに主だった人たちをご紹介いたします。

クララ・ボウ

1905年、ニューヨークの下町の非常に貧しい家庭に生まれた「クララ・ボウ」は、アルコール依存症の父と精神病院で死亡した母の下に育つも、容姿だけは恵まれたため、女優になることだけを唯一の希望に、日々過ごしていたと言います。

1922年、17歳でサイレント映画にデビューすると、数年でハリウッドのセックス・シンボルにまで成り上がり、最高給取りの女優のひとりとなります。

1929 Tipo 8A Sport Landaulette

しかし、トーキー映画の時代に入ると、クララ・ボウの人気の衰えは、ほかのサイレント俳優同様、避けられないものであり、引退は28歳という若さでありました。

引退後は、血は争えないのかアルコールに溺れ、精神病療養施設にまで収容されていた時すらあったといいます、1965年、60歳で他界。

ルドルフ・ヴァレンティノ

サイレント映画時代の伝説的美男スター「ルドルフ・ヴァレンティノ」はイソッタ・フラスキーニを2台も所有していました。

1924 Tipo 8A Town car by Freetwood

彼の2台目のイソッタ・フラフキーニは「フリ-トウッド」のコーチワークによるロードスターで、この車は1926年10月に完成しますが、ヴァレンティノは完成した車を見ることなく、その2か月前に31歳の若さで急死しております。

1926 Tipo 8A Sport Roadster by Freetwood

グロリア・スワンソン

「グロリア・スワンソン」主演の「サンセット大通り」(1950年)は映画史に残る傑作と評価されています。

スワンソン演じるサイレント時代の伝説的大女優ノーマ・デズモンドは、自分の時代はとうに終わっているという事実を受け入れられず、精神を狂わせてしまいます。

自身をまだ大スターだと思い込むことで平静を保っているノーマは、全盛期に稼いだ金だけはあるので、ふたたび映画で脚光を浴びるべく様々な試みを行っているのですが、その一連の行為は彼女の狂気ゆえに周りをも巻き込む悲劇として収束していきます・・・

“I am big! It’s the pictures that got small.”
私は偉大なまま!小さくなったのは映画の方だわ

劇中、ノーマの愛車として「カスターニャ」のコーチワークによる「ティーポ 8A トランスフォーマブル」が登場しますが、小さくない役割を果たしています。

ある日、ノーマに長らく音信の途絶えていた撮影所から連絡が入りますが、妄執の中のノーマはそれを自分への出演オファーだと思いこみ、イソッタ・フラスキーニに乗って撮影所に向かいます。

1929 Tipo 8A Transformable by Castagna

撮影所のスタッフらは、ノーマは既に過去の人という認識でしたが、彼女の業績には敬意を払っており、ノーマは久しぶりの撮影所で持ち上げられて、気分を良くします。

実のところ、その用件は彼女のイソッタ・フラスキーニを撮影に貸して欲しいというものでしたが、かつての盟友だった映画監督(「セシル・B・デミル」が本人役で出演!!)は、意気揚々とするノーマを前に、とても本当のことなど言えるわけがありません。

ラストシーン。報道記者らが容疑者ノーマにカメラを向けるも、妄想ゆえに映画撮影と思い込み、ポーズを決めての名セリフ。

“All right, Mr. DeMille, I’m ready for my close-up.”
いいわよ、デミル監督、クローズアップして”

蛇足ながら・・・鬼気迫る演技でノーマを見事に演じきった「グロリア・スワンソン」は、実際に落ち目のサイレント映画スターであり、またイソッタ・フラスキーニを所有していました。

サンセット大通りには、グロリア・スワンソンの他にも、サイレント映画スターやその映画監督らが、非常にメタ的な役で多数出演しており、その背景を知ればビリー・ワイルダー監督と脚本陣の力量にウ~ンと唸らされずにいられない映画といえましょう。

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タルガ・フローリオ

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1906年から1977年までの72年間に、戦争による2回の中断をはさみながらも計61回開催されたシチリア島内を周回する公道レースです。

「タルガ・フローリオ」をオートバイレースで例えれば、レース形式といい、歴史の長さといい・・・マン島内を周回する公道レース「マン島ツーリスト・トロフィー」が当てはまるといえるでしょう。

第1回大会は1906年5月6日開催

タルガ・フローリオは、シチリアの大富豪の御曹司で自動車レースを愛する「ヴィンチェンツォ・フローリオ・ジュニア」の後援で始まりました。

ちなみに、ヴィンチェンツォ・ジュニアにはイグナツィオ・ジュニアという兄がいましたが、この不肖の兄弟はそろって事業の才が無く、祖父と父が築いた莫大な財産を浪費するだけで、1930年代に世界恐慌の影響もあって、フローリオ財閥を経済破綻させています。

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コース
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全61回で、以下の7コースが使用されました。

  チルクート・グランデ:1周 148 km 第 1 ~ 6 回
  チルクート・メディオ:1周 108 km 第 10 ~ 21 回
  チルクート・ピッコロ:1周 72 km 第 23 ~ 27 回
                   &第 35 ~ 61 回

時差式スタートで反時計回りで規定数を周回します。ルートは時代を経て大→中→小と短縮されています。

  ジーロ・デ・シチリア(シチリア島1周)

首都「パレルモ」からスタートし、同地にゴールします。

   時計回り: 965 km  第 7 回 ~ 第 9 回
  反時計回り: 1,080 km  第 32 回 ~ 第 34 回

  パレルモ=ファヴォリータ・パーク・サーキット

首都パレルモの市立公園内の公道を封鎖して作ったクローズド・コースが使用された時もありました。

  1 周5.26km を60 周 315.6 km:第 28 回
  1 周5.70km を30 周 171.6 km:第 29 回
  1 周5.70km を40 周 228.0 km:第 30 ~ 31 回

偽りのタルガ

1930年代後半になるとライバルイベントも乱立してか、タルガフローリオへの参加台数が減少し続けていることを、レース主催者らは憂慮していました。

彼らは、レースがあまりに「過酷」で参加「コスト」もかかる、昨今は機械的な「耐久性」よりも「スピード」が重視されている、と判断して、レースをより「穏やか」で「責任の限定された」クローズド・コースへ移転することを決定しました。

この変更への評価は、控えめに言って賛否両論で、ファヴォリータで行われた4回のレースを「偽りのタルガ」と呼ぶ者もおりました。

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歴代チャンピオン
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    Year   Winner             Machine
 1  1906   Alessandro Cagno   Itala
 2  1907   Felice Nazzaro     Fiat 28/40 HP
 3  1908   Vincenzo Trucco    Isotta-Fraschini
 4  1909   Francesco Ciuppa   SPA
 5  1910   Tullio Cariolato   Franco Automobili
 6  1911   Ernesto Ceirano    SCAT
 7  1912   Cyril Snipe        SCAT
 8  1913   Felice Nazzaro     Nazzaro
 9  1914   Ernesto Ceirano    SCAT

第1回タルガ・フローリオは、1906年5月6日(日)午前6時にスタートしました。

10人のドライバーらが、

#1 V.Lancia – Fiat 24/40 HP

#2 H.Le Blon / M.me Le Blon – Hotchkiss 35 HP 5.0

#3 A.Cagno – Itala 35/40 HP 8.0

#4 A.Fournier – BayardClement 24 HP

#5 P.Bablo – Berliet 24/40 HP 6.5

#6 G.Pope – Itala 35/40 HP 8.0

#7 M.Fournier – BayardClement 35 HP

#8 P.De Caters – Itala 35/40 HP 8.0

#9 V.Rigal – Itala 35/40 HP 8.0

#10 E.Graziani – Itala 35/40 HP 8.0

「カンポフェリーチェ・ディ・ロッチェッラ」にある海沿いの「ブオンフォルネッロ」のストレートからから出発し、

「チェルダ」「カルタヴトゥーロ」「ペトラリア・ソプラナ」「カステルブオーノ」「コッレザーノ」の村々をつなぐ丘陵地帯や山岳地帯(最高標高は「ジェラーチ・シークロ」付近の 1,060 m)の曲がりくねった道を抜け、再び海沿いの道へと戻る 148 km の「チルクート・グランデ・デッレ・マドニエ」を3周した後、

出発地点の「カンポフェリーチェ」でゴールします。

第1回のレースは、イターラ駆る「アレッサンドロ・カーニョ」が、444kmを9時間32分22秒で走破(平均速度 46.8 km/h)して制覇されました。彼には、純金で作られた楯(タルガ)を含む4万リラないし5万リラという巨額な賞金が贈られています。

1906 Winner – Alessandro Cagno – Itala

ヨーロッパ中からジャーナリストや観客が集まったレースは大成功を収め、タルガ・フローリオは早くも、最も権威のある自動車レースのひとつとなりました。

貴賓観覧席

ここで第1回タルガ・フローリオをリタイアで終えた「ヴィンチェンツォ・ランチア」について言及しておきましょう。

FIAT でレーシングマシン開発兼テストドライバーを務めるランチアは、FIAT のワークスレーサーとして FIAT 24/40 HP を駆って出走しますが、スタートから2時間後に連続2回のパンクに見舞われた後、羊に衝突してコースアウトしてしまいます。農夫の助けを借りて再スタートするも、今度は燃料タンクからのガソリン漏れに見舞われ、さらには 2 周目を終えたところでエンジンブローを起こし、とどめを刺されています。

ええ、彼は翌1907年、フィアット時代に同僚であった「クラウディオ・フォゴリン」と共にに自分の名を冠した著名な自動車メーカーを創業するその人です。

ランチア初の市販車アルファ 12HP(1907年)

第2回タルガ・フローリオは、1907年4月21日(日)に行われ、有名ドライバーを多数含む46名もの参加者が集まりました。

基本的な背景に イタリア勢 VS フランス勢があり、激しいバトルを展開させています。FIAT駆る「ヴィンチェンツォ・ランチア」と「フェリーチェ・ナザロ」、イターラ駆る「アレッサンドロ・カーニョ」らがトップ争いを行う中、

ダラック駆るフランス人「ルイ・ワグナー」が後方から猛追、トップに迫るも、3周目の始まりでドライブシャフトを破損し、リタイアを余儀なくされています。

優勝はナザロでタイムは8時間17分36秒、平均速度は 54.1 km/hでした。

1907 Winner – Felice Nazzaro – Fiat 28/40 HP

2位はランチア、

3位はイターラ駆るフランス人の「モーリス・ファブリ」でした。

第3回タルガ・フローリオは、1908年5月17日(日)に行われ、13人の参加者に対し、約3万人の観客が押し寄せました。

優勝候補は、昨年の1位予2位のナザロとランチア。2人は同じピエモンテ出身で同じFIATのワークスドライバーながら、激しいライバル関係にありました。

1周目、トップを走るナザロにランチアが猛追、ナザロはステアリングナックルを破損しリタイア。ナザロに代わってトップに立ったランチアの後ろには、イソッタ・フラスキーニ駆る「ヴィンチェンツォ・トゥルッコ」が迫っていました。

ランチアの勝利は確実と思われる中、最後の給油ストップでランチアは、時間と重量の節約のため、タイヤ交換をせずスペアタイヤも積まないという戦略を選択しました。しかし、その選択は裏目に出て、その後2回のパンクに見舞われたランチアは、修理に多大な時間を費やすことになったのです。

優勝したトゥルッコは、7時間49分26秒、平均速度57.1kmでゴールしています。ランチアは昨年に続き2位に甘んじなければなりませんでした(ランチアは。タルガにおいては無冠の帝王で終わっています)

1908 Winner – Vincenzo Trucco – Isotta-Fraschini

第4回タルガ・フローリオは、1909年5月2日(日)に開催されました。当時のシチリア島は、1908年12月のメッシーナ地震の被害で混乱状態にありました。

それにもかかわらず・・・というより、それゆえに、レースは決行され、11名が参加しています。今回のタルガにはワークスチームの参加がなく、参加者のほぼ全員がパレルモ出身者で占められました。ヴィンチェンツォ・フローリオも参戦を決めています。

ヴィンチェンツォ・フローリオは回想録にこう記しています。

「スタート時は好天だったが、マドニエ山脈は霧と雨に見舞われていた。私を含めドライバーたちは、びしょ濡れになっても意気消沈することはなかった。序盤から、FIATを駆る私とSPAを駆るフランチェスコ・チウッパとの争いは白熱した。イスネッロまで勝負は決着しなかったが、コレッザーノへの下り坂で私はライバルを追い抜くことができた。チウッパ男爵に対して十分なアドバンテージがあると信じていたが、ある時点で、切迫した個人的な欲求に抗えなくなり、一瞬立ち止まってしまった。その瞬間が私の敗北が決定づけられた。チウッパはわずか1分差で私を破り、私はレースの栄誉の名簿に自分の名前を加えることができず、非常に落胆した」

1909 2nd – Vincenzo Florio – FIAT

若干23歳のチウッパは、今回が初レースであるにもかかわらず、ランチアやナザロに匹敵する速さを示し、周囲を驚かせました。

1909 Winner – Francesco Ciuppa – SPA

1910年5月15日に行われた第5回タルガ・フローリオの参加者は、わずか5名に過ぎませんでした。ヴィンチェンツォ・フローリオは、ヴォワテュレット(小型車)レースを同日に併催することを決め、3台のプジョーが出場することになりました。

レースはヴォワテュレット・クラスに合わせる形で2周となり、フランコ駆る「トゥリオ・カリオラート」が平均速度46.8km/hで優勝しました。

1910 Winner – Tullio Cariolato – Franco Automobili

2位のシグマ駆る「ルイージ・デ・プロスペリス」は2時間も遅れてのゴールしています。

ヴォワテュレット・クラスを制したのはプジョー駆るフランスの「ジョルジュ・ボワイヨ」でした。

参加台数と観客数の低迷に危機を感じたヴィンチェンツォ・フローリオは、ヨーロッパへ旅立ち、レーサーや自動車メーカー、タイヤメーカーを訪問し、タルガへの参加を求めました。結果は実り多いものとなりました。

1911年5月14日開催の第6回タルガ・フローリオは再び関心を呼び起こし、イタリア、アメリカ、ドイツ、フランスから17台のエントリーがありました。またミシュランタイヤとコンチネンタルタイヤの協賛があり、入賞者に豪華な賞品が提供されています。

レース当初は、アルファ(後のアルファロメオ)駆る「ニーノ・フランキーニ」がリードしていましたが、カルタヴトゥーロでコーナーで転倒事故を起こしリタイアしています。幸いにもドライバーらは無傷でした。

次に SCAT を駆る「エルネスト・セイラーノ」がトップに立つと独走態勢を維持し続け、9時間32分22秒でタルガを制しました。

1911 Winner – Ernesto Ceirano – SCAT

2位はランチアを駆る若き「マリオ・コルテーゼ」でした。

シチリア島の観光業を活性化させる必要があると判断したヴィンチェンツォ・フローリオは、シチリア島を1周する全長 1,000km 弱のコース「ジーロ・デ・シチリア」を制定し、1912年の第7回タルガ・フローリオから採用しました。島全体を走るというこのレースの革新性は、たちまち業界関係者の心を掴み、ワークスチームやプライベータからの参加が殺到しました。

このコースは1914年までの3年間使用されました。

1912 Winner – Cyril Snipe – SCAT

1913 Winner – Felice Nazzaro – Nazzaro

1914 Winner – Ernesto Ceirano – SCAT

第一次世界大戦(1914年~1918年)のため、1915年から1918年まで4年間中断されます。

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   1915
   1916         WW.I
   1917
   1918
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1920年代にはグランプリマシンが参戦するようになり、ブガッティ、アルファロメオらが覇を競っています。

10   1919   André Boillot            Peugeot EXS
11   1920   Guido Meregalli          Nazzaro GP
12   1921   Giulio Masetti           Fiat 451
13   1922   Giulio Masetti           Mercedes GP/14
14   1923   Ugo Sivocci              Alfa Romeo 
                                     RL Targa Florio
15   1924   Christian Werner         Mercedes PP
16   1925   Bartolomeo               Bugatti T35
           "Meo" Costantini
17   1926   Bartolomeo               Bugatti T35T
           "Meo" Costantini
18   1927   Emilio Materassi         Bugatti T35C
19   1928   Albert Divo              Bugatti T35B
20   1929   Albert Divo              Bugatti T35C
21   1930   Achille Varzi            Alfa Romeo P2
22   1931   Tazio Nuvolari           Alfa Romeo 
                                     8C-2300 Monza
23   1932   Tazio Nuvolari           Alfa Romeo
                                     8C-2300 Monza
24   1933   Antonio Brivio           Alfa Romeo
                                     8C-2300 Monza
25   1934   Achille Varzi            Alfa Romeo
                                     Tipo-B P3
26   1935   Antonio Brivio           Alfa Romeo
                                     Tipo-B P3
27   1936   Constantino Magistri     Lancia Augusta

1919 Winner – André Boillot – Peugeot EXS

エンツォ・フェラーリの初レースは1919年のタルガ・フローリオでした。当時20歳のエンツォは、自身がテストドライバーを務めるミラノの新興メーカー CMN から、メカニックのニーノ・ベレッタと共に CMN 15/20 HP を駆って参戦しています。

1919 – Enzo Ferrari – CMN 15/20 HP

エンツォの回想録から抜粋して紹介いたします。

私と私の車を追う2台が、カンポフェリーチェに差し掛かったところでした。道路の真ん中に立つ3人のカラビニエリ(軍警察)が、私たちに停止の合図を出しました。カラビニエリの指示に従わないわけにはいきません。

私たちは丁重に停止の理由を尋ねました。
「事故も危険もありません」「首相が演説を終えるまでお待ちください」
カラビニエリたちは答えました。

シチリアじゅうの人々が、パレルモ出身の首相、ヴィットリオ・エマヌエーレ・オルランドを称賛するために集まっており、道路は町の中心広場まで人であふれていました。私たちは、いくつかの控えめな抗議を試みましたが、まったく無駄に終わりました。

演説はかなり長く続き、それが終わった後も、すぐに通行の許可は出ませんでした。首相の車列に私たちの車が続行することを熱心に主張して、ようやく許可されたのです。

こうして、黒いド・ディオン・ブートンのセダンと一緒に数キロ進み、首相の車が脇道にそれたときに、ようやくフルスロットルにすることができました。

ゴールに着くと、タイムキーパーも観客も、パレルモ行きの最終列車で既にいなくなっていました。カラビニエリらが、遅着した選手のタイムを1分単位で辛抱強く記録していただけでした。

翌月曜日に、ヴィンチェンツォ・フローリオにお会いしたとき、彼は気さくな口調でこう言いました。
「何に不満があるんだ?君は遅れただけだ。何か危険な目にあわされたわけじゃない。しかも、君をランキングに入れてやるという贈り物までしたじゃないか!」

私は9位にランクインされた。(正式な記録では完走は8台となっています)

1920 Winner – Guido Meregalli – Nazzaro GP

GIRO VELOCE

1920 2nd – Enzo Ferrari – Alfa Romeo 40/60

1921 Winner – Giulio Masetti – Fiat 451

1921 5th – Enzo Ferrari – Alfa romeo 20/30 ES

1922 Winner – Giulio Masetti – Mercedes GP/14

1922 16th – Enzo Ferrari Alfa Romeo ES

1923 Winner – Ugo Sivocci – Alfa Romeo RLTF

1923 Ret – Enzo Ferrari – Alfa Romeo RLTF

1924 Winner – Christian Werner – Mercedes PP

1925 Winner – Bartolomeo “Meo” – Costantini Bugatti T35

1926 Winner – Bartolomeo “Meo” – Costantini Bugatti T35T

1926年のタルガ・フローリオには、最新のスーパーチャージャー付き2リッター12気筒のドラージュが4台エントリーしていました。3台はワークスドライバーが駆るワークスカーで、残り1台はフィレンツェのジュリオ・マセッティ伯爵のプライベートカーでした。

1921年と1922年を連覇しているマセッティ伯爵は、この年も優勝候補でしたが、最初のラップで横転、帰らぬ人となってしまいます。この事故でドラージュのワークスチームはレースから撤退しています。

1926 Ret – Giulio Masetti – Delage 2LCV

1927 Winner – Emilio Materassi – Bugatti T35C

1928 Winner – Bugatti T35B

1929 Winner – Albert Divo – Bugatti T35C

1930 Winner – Achille Varzi – Alfa Romeo P2

1931 Winner – Tazio Nuvolari – Alfa Romeo 8C-2300 Monza

1932 Winner – Tazio Nuvolari – Alfa Romeo 8C-2300 Monza

1933 Winner – Antonio Brivio – Alfa Romeo 8C-2300 Monza

1934 Winner – Achille Varzi – Alfa Romeo Tipo-B P3

1935 Winner – Antonio Brivio – Alfa Romeo Tipo-B P3

1936 Winner – Constantino Magistri – Lancia Augusta

ファヴォリータ・パークで行われた4回のレースは、マセラティが勝利を独占しました。

28   1937   Giulio Severi            Maserati 6CM
29   1938   Giovanni Rocco           Maserati 6CM
30   1939   Luigi Villoresi          Maserati 6CM
31   1940   Luigi Villoresi          Maserati 4CL

1937 Winner – Giulio Severi – Maserati 6CM

1938 Winner – Giovanni Rocco – Maserati 6CM

1939 Winner – Luigi Villoresi – Maserati 6CM

1940 Winner – Luigi Villoresi – Maserati 4CL

第二次世界大戦(1939年~1945年)のため、1941年~1947年まで7年間中断されます。

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     1941
     1942
     1943
     1944         WW.II
     1945
     1946
     1947
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戦後はスポーツカーレースとして復活しました。

32   1948   Clemente Biondetti    Ferrari 166
            Aldo Benedetti
33   1949   Clemente Biondetti    Ferrari 166 SC
            Aldo Benedetti
34   1950   Mario Bornigia        Alfa Romeo 6C 2500
            Giancarlo Bornigia    Competizione
35   1951   Franco Cortese        Frazer Nash
36   1952   Felice Bonetto        Lancia Aurelia B20
37   1953   Umberto Maglioli      Lancia D20 3000
38   1954   Piero Taruffi         Lancia D 24

1948 Winner

1949 Winner

1950 Winner

1951 Winner

1952 Winner

1953 Winner

前年優勝のフェリーチェ・ボネット駆る #30 ランチア・アウレリア D20 が、アダモ・ビニャミ駆る #18 スタンゲリーニ 1100 ベルリネッタ・スペチアーレと正面衝突事故を起こしています。

日本のレース黎明期に多大な貢献を果たしたピエロ・タルッフィは、1954年のタルガ・フローリオに優勝しています。

ゴール後、(おそらくスポンサーの)コカ・コーラを手渡されると、ゴクリと一口。顔の汚れの凄さに注目されたし。

1954 Winner – Piero Taruffi

モータースポーツとコーク

1950年代後半には世界スポーツカー選手権の1戦に組み込まれます(★の付いた年)。公道を走るプロトタイプカー見たさに観光客が詰めかける大人気イベントとなり、この時代がタルガ・フローリオの黄金期といえましょう。

39★ 1955   Stirling Moss          Mercedes-Benz
            Peter Collins          300SLR
40   1956   Umberto Maglioli       Porsche 550
            Huschke von Hanstein
41   1957   Fabio Colona           Fiat 600

ヴィンチェンツォ・フローリオは、タルガ・フローリオを世界メーカー選手権の1戦に組み込むべく統括団体への働きかけを熱心に行っていましたが、ついに1956年10月16日に行われた第39回タルガ・フローリオでそれが実現します。それまで5月に行われたタルガを、10月開催とすることも特に問題なく受け入れています。

世界選手権の1ラウンドとなった最初のタルガ・フローリオを制したのは、無敵艦隊メルセデスベンツでした。

1位はスターリング・モス/ピーター・コリンズ組の300SLR(#104)。彼らは、平均100.187km/hで最速ラップを叩き出し、13周平均96.290km/hで完走しています。

1955 Winner – Stirling Moss / Peter Collins
– Mercedes Benz 300SLR

スターリング・モスが4周目のコースアウトを回想しています。

「山の奥深く、右カーブを抜け高速の左カーブに侵入しようとしていたところ、泥か砂利道でコントロールを失った。SLRは土手に跳ね返り、路肩から宙に舞った。どうなってしまうか分からない恐怖の瞬間だった。

幸いにも、道路脇のフィールドはちょうど下り坂になっていて、道路からたった3~4メートルしか落ちずに済んだ。車はまだ驚くほど元気で、問題は道路に戻る方法を見つけることだった。

地元の親切な人たちが駆け寄って助けてくれた。何度もハンドルを切り返し、押し合い、叫び合いをした後、なんとかマシンをコースに戻すことができた。12分ほどのロスだった」

2位はファン・マヌエル・ファンジオ/カール・クリング組のメルセデス300SLR(#112)。

1955 2nd – JUAN Manuel Fangio / Karl Kling
– Mercedes Benz 300 SLR

当時のフェラーリは圧倒的なメルセデスの前では、あまりに無力でしたが、エウジェニオ・カステッロッティ/ロバート・マンゾン組のフェラーリ857S(#116)は、3位を走っていたデスモンド・ティッターリントン/ジョン・フィッチ組のメルセデス300SLR(#106)に必至に追いすがり、

最後に僅差で抜き去り、見事というべき3位入賞を果たしています。

1955 3rd – Eugenio Castellotti / Robert Manzon
– Ferrari 857 S

第40回タルガ・フローリオは、1956年6月10日に開催されました。この年、わずか1500㏄のポルシェが、フェラーリ、マセラティ、メルセデス・ベンツといった大排気量マシンを制して総合優勝を果たしたのです。圧勝といってよいレース内容でした。

1956 Winner – Umberto Maglioli /
Huschke von Hanstein – Porsche 550

1周72kmのチルクート・ピッコロを10周、一人で走りきったウンベルト・マリオーリは28歳のイタリア人で、彼は1953年のタルガでランチア D20を駆り優勝した経験がありました。

この1956年の勝利は、今後のポルシェのジャイアント・キラーとしての活躍の端緒となる歴史的な出来事でありました。

なぜ1957年のが優勝車が Fiat 600 なのか

1957 Winner – Fabio Colona – Fiat 600

タルガ・フローリオを語る前に、同じ公道レース「ミッレ・ミリア」で起きた事件をお話ししなければなりません。

1957年5月に開催されたミッレ・ミリアにおいて、フェラーリ 335S 駆る28歳、スペイン貴族のジェントルマンレーサー「アルフォンソ・デ・ポルターゴ」は、3位でカヴリアーナのストレートを走行中、240m/hでタイヤがパンクし、車のコントロールを失います。

沿道の聴衆の中に飛び込んだポルターゴのフェラーリは、ポルターゴ自身と彼のコ・ドライバー、そして子供5人を含む9人の観客の命を奪ってしまいます。

さらにこの事故で、ミッレミリアも「死」を余儀なくされたことを追記しなくてはなりません。

なお、この年のミッレミリアの勝者は、フェラーリ 315S駆るポルターゴのチームメイト「ピエロ・タルッフィ」で(皮肉にもフェラーリは 1-2-3 フィニッシュでした)、彼はタルガ・フローリオの常連参加者でもありました・・・

Enzo Ferrari and Piero Taruffi at 1957 Mille Miglia

ミッレ・ミリアの凄惨な事故は、同じ公道レースであるタルガ・フローリオの開催を危うくしました。伝統を途切れさせたくなかったヴィンチェンツォ・フローリオは、この年のレースに「レギュラリティー(速さではなく、指定された時間にどれだけ正確に合わせられるかを競う)方式」を採用することで、なんとか11月24日開催に漕ぎ着けることができたのです。

タルッフィはレギュラリティー方式となったタルガ・フローリオに背を向けることなく、自分の妻をコドライバーとして乗せた ランチア・アッピアで出走し、2位となっています。

1957 2nd – Piero Tarufi – Lancia Appia

この年出走した129台はすべて完走と相成りました。

42★   1958   Luigi Musso         Ferrari 250TR
              Olivier Gendebien 
43★   1959   Edgar Barth         Porsche 718 RSK
              Wolfgang Seidel 
44★   1960   Jo Bonnier          Porsche 718 RS60
              Hans Herrmann
              Graham Hill
45★   1961   Wolfgang von Trips  Ferrari Dino 246SP
              Olivier Gendebien
46★   1962   W.Mairesse          Ferrari Dino 246SP
              R.Rodriguez
              O.Gendebien
47★   1963   Jo Bonnier          Porsche 718 RS64
              Carlo Maria Abate
48★   1964   Colin Davis         Porsche 904 GTS
              Antonio Pucci 
49★   1965   Nino Vaccarella     Ferrari 275 P2
              Lorenzo Bandini  
50★   1966   Willy Mairesse      Porsche 906
              Her bert Müller     Carrera 6
51★   1967   Paul Hawkins        Porsche 910
              Rolf Stommelen  
52★   1968   Vic Elford          Porsche 907
              Umberto Maglioli
53★   1969   Gerhard Mitter      Porsche 908/2
              Udo Schütz  
54★   1970   Jo Siffert          Porsche 908/3
              Brian Redman
55★   1971   Nino Vaccarella     Alfa Romeo 33/3
              Toine Hezemans  
56★   1972   Arturo Merzario     Ferrari 312PB
              Sandro Munari 
57★   1973   Herbert Müller      Porsche 911 
              Gijs van Lennep     Carrera RSR

タルガ・フローリオの醍醐味は、フェラーリ、ポルシェ、アルファロメオといった純レーシングカーが町中をレーシングスピードで、路地の歩道や家の庇をかすめながら駆け抜けていくことでしょう。

1958 Winner

1959 Winner

1960 Winner

1961 Winner

1962 Winner

1962 Twin Engine MINI

ミニのチューニングで名高いダウントンエンジニアリングが製作したツインエンジンミニが、1963年のタルガフローリオ参戦を果たしています。

「931 RFC」の公道ライセンスプレートを付けたゼッケン162のミニは、997ccのスタンダード・クーパーエンジンを前後に2基積み、178PSで217km/hに達したということです。

ドライバーはジョン・ウイットモアと前年のル・マンウイナー、ポール・フレールです。

162twini

1963_targa_florio_01

リア側エンジンのラジエータートラブルによるオーバーヒートとタイヤの摩耗に悩まされ、加えてトランスミッションのシンクロリンケージが壊れたため、しばしば前後のエンジンが異なる回転で回っている始末でしたが、なんとか完走を果たします。同じダウントンエンジニアリング・チームのFFミニが総合25位(クラス4位)であったのに対し、ツインエンジン・ミニは総合27位(クラス5位)でありました。

1963 Winner

1963 René Bonnet Djet Renault

1964 Winner

1964 Porsche 904 GTS

1965 Winner

1965 Ferrari 275P2

1966 MGB

1966 Ferrari 330P3 and Alpine A110

1967年5月の第51回タルガ・フローリオは、名だたるスターレーサーたち、そして世界有数のレーシング・コンストラクターらが勢ぞろいした、あまりに贅沢で盛沢山なレースでありました。

なお、翌1968年から世界スポーツカー選手権においてレギュレーション改定が入り、プロトタイプカー(生産台数制限なし)もスポーツカー(最低50台/年生産)も排気量無制限だったものが、前者が3リッター以下、後者は5リッター以下に制限されるようになります。

つまり1967年は、4リッターのフェラーリ 330 P4、4.7リッターのフォード GT40、7リッターのフォード GT40 Mk.II、シャパラル 2F といったモンスター級プロトタイプカーの最後のレースシーズンとなったのです。

フェラーリ

最も注目されるスクーデリア・フェラーリは、タルガ開催日のわずか4日前に、モナコ・グランプリでの事故で、エース「ロレンツォ・バンディーニ」を失っていました。

タルガでポルシェに勝てる唯一のマシンと目される 330 P4 は、タルガのコースを熟知したイタリア人コンビ「ニーノ・ヴァッカレッラ」と「ルドヴィコ・スカルフィオッティ」がドライブすることになりました。

さらに軽量ゆえタルガ向きとされるディーノ 206 S を2台、有力プライベータに託す形で投入しています。

また 330 P3 を改修しプライベータ向けとした 412 P もスイスの「スクーデリア・フィリッピッティ」から出走させ、脇を固めています。

ポルシェ

最近のタルガで覇権を握るポルシェは、タルガのコースに最も適したマシンのひとつであることは間違いなく、今年は 910 の6気筒仕様に加え、タルガより新たに8気筒仕様も投入してきています。

アルファロメオ

「アウトデルタ」はポルシェと真っ向から対決すべく、新型2000ccV8エンジンを積むティーポ 33 を4台も投入してきました。

NC – #170 Andrea De Adamich / Jean Rolland
– Alfa Romeo Tipo 33

RET – #190 Giancarlo Baghetti / Joakim Bonnier
– Alfa Romeo Tipo 33

NC – #192 Ignazio Giunti / Giovanni Galli
– Alfa Romeo Tipo 33

NC – #200 Nino Todaro / Giacomo Russo
– Alfa Romeo Tipo 33

フォード

ル・マンにしか興味の無いフォードはワークス参戦せず、有力プライベータによる参戦のみでした。

RET – #126 Guy LIGIER / Jo SCHLESSER – Ford GT

5th – #130 Henri GREDER / Jean Micheal GIORGI – FORD GT

シャパラル

7000ccのV8エンジンを積む大きく重いシャパラルは、ツイスティでアップダウンが多いタルガではあまりに不利な存在であることは周知の事実でありました。

シャパラルはそんな下馬評を覆すつもりなのか、遠路はるばるテキサスからシチリアにやって来たのでした。

驚くほど高く、さらに可動するウイングを持つシャパラル2Fは、パドックで最も注目を集めました。しかし、その自慢のウイングも低中速コーナーの多いタルガでは、本領を発揮するまでには至りませんでした。

ローラ

前年のシーズン半ばにスクーデリア・フェラーリと愛憎半ばに決別し、ローラに合流した「ジョン・サーティース」は、ローラでフェラーリに一矢報いたいところです。

なおローラ T70 系は、あまりにフェラーリ 330P 系に似ているということで、サーティースがローラに情報を流したのではないかという疑惑がスクーデリア内部で問題となった車です。

1966年6月、スクーデリア・フェラーリのエース「ジョン・サーティース」は、フォードとの歴史的対決となるル・マン24時間レース直前に突如、スクーデリアを去りました。チーム監督「エウジェニオ・ドラゴーニ」との数年に渡る確執が、我慢の臨界点を越えたというのが、その理由です。

ドラゴーニは、イタリア人ドライバーをモータースポーツの最高峰へ到達させることに心血を注いだ半面、イタリア人ではないドライバーを徹底的に冷遇しました。

Eugenio Dragoni and Enzo Ferrari

サーティースの闘争心があふれ過ぎた性格、少しの妥協も許さない姿勢、政治的配慮なんぞクソくらえといった態度が、全くスクーデリア向きではなく、ドラゴーニとの間には、最初から最後まで少しも噛み合うところがなかったのです。

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1963年
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1963年初頭、スクーデリアに加入したばかりのジョン・サーティースは、初陣となる3月のセブリング12時間に向け、新型250Pのセッティングに精力的に取り組みます。完璧主義者である彼は、マシンの細部に至るまで徹底的にセットアップを施したのです。

しかし、サーティースがセブリングに来てみると、彼が仕上げたマシンはメレス/ヴァッカレラ組に割り当てられており、サーティース/スカルフィオッティ組には未テストのマシンが渡されました。

短気なサーティースはドラゴーニの仕打ちに激怒しつつも、気を取り直し、与えられたマシンで全力を尽くそうと決め、限られた時間内で、できうる限りの調整をマシンに行います。不完全な仕上がりながら臨んだレース本番で、サーティース/スカルフィオッティ組は見事を勝利を収めたのです。

しかし、チームがイタリアに戻ると、スポークスマンのドラゴーニは報道陣に向け、サーティースの車両は周回カウントを間違えていたため、実際はレースの勝者ではなかったと発表したのでした。

この頃のサーティースを支えたものはエンツォからの寵愛でしたが、それも永遠に続くものではありませんでした。

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1964年
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サーティースとドラゴーニの関係は、全てがネガティブだったわけではありません。サーティースは、1964年にF1チャンプとなっていますが、意外なことに(本来は「当然のこと」ですが)、ドラゴーニはそれを手助けしています。

1964年F1最終戦メキシコグランプリの最終ラップ、ドラゴーニは2位を行く「ロレンツィオ・バンディーニ」に対し、3位を行くサーティースに順位を譲るよう指示します。この配慮で2位に滑り込んだサーティースは、わずか1ポイント差でグラハム・ヒルを抑えドライバーズ・タイトルを、またフェラーリもコンストラクターズ・タイトル獲得できたのです。

ドラゴーニといえども、自身の好き嫌いよりもスクーデリアの栄誉を優先させたということなのでしょう。

興味深いことに、サーティースは晩年のインタビュー(2014年)で、1964年のメキシコGPに関して、ドラゴーニが主張するような指示は、レース前もレース中にもなかったと述べています。

「当時はチームオーダーやレースをどう進めるかのシナリオなど一切なく、事前のミーティングすらなかった。ただただマシンに乗って、やれるようにやるだけだった。すべてはエンジンの選択にかかっていた」

サーティースは、12気筒エンジンは信頼性が足らず、レース中に油圧の問題に直面するだろうと予測し、自分はパワーで劣るが信頼性の高い8気筒エンジンを選択したことが功を奏した・・・12気筒を使ったバンディーニはレース終盤、エンジン回転数を落とさざるを得なくなった・・・と主張しています。

サーティースによれば、ドラゴーニは自身がどうかしたわけでもないレース中の出来事を、いかにも自らが仕掛けたオーダーだと主張し、サーティースの功績を不当に自分のものにした、ということになります。

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1965年
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この年、最悪な出来事が起きてしまいます。

サーティースはスクーデリアの許可を得て、チーム・サーティースとしてのレース活動も行っており、9月には、カナダ・オンタリオ州トロントのモスポートパークで行われたスポーツカーレースにローラ T70 Mk.II でエントリーしていました。

その練習走行中に大事故を起こしたサーティスはクルマの下敷きとなり、骨盤骨折、腎臓破裂、脊髄損傷という瀕死の重傷を負ってしまうのです。

再起不能とささやかれてしまうほどの大ケガを負ったことは、ドラゴーニにサーティース降ろしの口実を与えてしまうどころか、あれほど大きかったエンツォの寵愛も危ういものにしてしまいます。

とはいえ、ローラに乗って起きた事故であるにもかかわらず、莫大な治療費をスクーデリアの保険で負担したという点に、エンツォの複雑な感情が垣間見られます。

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1966年
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不屈のサーティースは不死鳥と呼ぶにふさわしい男でした。1966年1月1日、わずか3カ月の治療で退院を果たします。

現役復帰は当分は無理だろう。いや永遠に無理かもしれない、といわれる中、1966年4月、退院から3カ月でレース復帰に漕ぎ着けたのです。

バンディーニを抱きかかえて
完全復帰を主張するサーティス

モンツァ1000kmレース

4月のモンツァ1000kmでサーティースは華々しく復帰を果たしました。サーティース/パークス組は、スタートからリードを奪い優勝を飾ったのです。

地元イタリアでの勝利にエンツォの喜びもいかほどのものだったでしょうか。

F1GP 第1戦 モナコ

5月のモナコのプラクティス中、サーティースとドラゴーニは公然と口論を繰り広げました。

ドラゴーニとサーティースの口論を呆然と見守る
フェラーリ広報部長「フランコ・ゴッツィ」夫妻

サーティースはモナコのようなコースでは、12気筒のティーポ312よりも、6気筒のディーノ246を使いたいと申し出たのですが、ドラゴーニは同意せず、こう言い放ちました。

「いやしくもスクーデリアのナンバー1ドライバーであれば、名誉をもって12気筒に乗るんだ」

仕様がなく312に乗ることになったサーティースは、15周まではトップに立っていましたが、デファレンシャルギア・トラブルでリタイアを余儀なくされました。

一方、ディーノに乗ったバンディーニは、幾度となくラップレコードを更新して観客を沸かせながら、ジャッキー・スチュワートに続く2位でフィニッシュしています。

サーティースは、自分がディーノに乗れば勝利は確実だったと思っていたに違いありません。

F1GP 第2戦 ベルギー

6月のベルギーグランプリは暴風雨のため、最初の数周で半分以上のドライバーがリタイアする中、サーティースは首位に立ちます。

彼は2番手からトップの様子を伺い、最後にトップを交わして勝つという戦法を得意としていましたが、この時も、レース中盤はクーパー駆るヨッヘン・リントにトップを譲り、最終ラップで猛然と追い上げ優勝しています。

ドラゴーニは優勝したサーティースに対し、彼を労うどころか「リントに20周もの間トップを開け放していた」と非難しました。それに対しサーティースは「あなたが私にレースに勝つ方法を教えることのできる日はまだ来ていない」とだけ答えたといいます。

結果的にベルギーグランプリがサーティースのスクーデリアでの最後のレースとなってしまいました。スパの翌週に行われるル・マン24時間レース直前のやり取りで、とどめが刺されてしまったからです。

ル・マン24時間レース

サーティースはル・マンにおける対フォード戦略として、自身がスタートドライバーを務め、レース序盤からハイペースを維持することでフォード勢のメカニカルトラブルを誘うという提案を行いました。しかし、ドラゴーニはそれを拒否し、フィアット会長ジャンニ・アニェッリを喜ばせるために、彼の甥であるスカルフィオッティをスタートドライバーに指名したのです。

ル・マンを走る気が失せたサーティースは、スクーデリアを出る決心を固めます。ドラゴーニに腹を立てたのは、サーティースだけではありません。1961年、フェラーリでアメリカ人初のF1チャンプとなった「フィル・ヒル」も、1962年シーズン終了をもってスクーデリアを飛び出しています。引退後、自動車評論家として名を成したフィル・ヒルは、スクーデリアをして「エンツォのご機嫌取りに奔走する愚劣な奴らばかり」と評しています。

サーティース以後では、フェラーリで1975年および1977年のF1チャンプを獲った「ニキ・ラウダ」が、1977年シーズン「途中」でスクーデリアと絶縁しています。彼は1976年のチーム監督「ダニエル・オーデット」を「緑色のクズ(緑はオーデットのラッキーカラー)」呼ばわりしています。

ドラゴーニ解任

エンツォ・フェラーリは1966年のレースシーズンが終わると(サーティースを追い出したと悪評高い)ドラゴーニを解任し、「フランコ・リニ」を後任に据えました。

実のところ、エンツォも扱いが難しいサーティースを切るつもりでしたが、確実に成果を出すサーティースをクビにする理由が見つからなかったのです。エンツォは、サーティースの追い出しに、彼とドラゴーニの緊張関係をうまく利用したわけですが、このあたりが、エンツォお得意のマキャベリ的采配なのでしょう。

また会おう、ジョン!
そしてドラゴーニとは永遠のお別れだ

フェラーリを去ったサーティースは、スポーツカーレースでは懇意のローラに合流し、F1ではクーパーに短い期間所属した後、ホンダのステアリングを握ることになりました。これは新興F1チーム・ホンダにとって邂逅といえるものでありましたが、それはまた別の話となりましょう。

とフェラーリとサーティースの因縁を長々書きましたが、なんとこの年のタルガにサーティースはやってきませんでした。残念ですね。

RET – #216 Hugh Dibley / Jack Epstein – Lola T70 mk.3

フェラーリ VS ポルシェ

レースはフェラーリ VS ポルシェで終始したといってよいでしょう。

予選1位のヴァッカレラの 330 P4 は好調なスタートを切ると、すぐにトップに立ち、1周目を終えた時点で、ワークス・ポルシェに1分以上の差をつけていました。

しかしヴァッカレラは、2周目のコッレザーノ村入口のヘアピンカーブで車体を滑らせ、道路端の縁石にホイールとサスペンションをぶつけてしまいます。足回りの損傷した330 P4 は、あっけなくリタイヤと相成りました。

後に、フェラーリのチーム監督「フランコ・リニ」が事故原因を調べた際、観客の一人から、ヴァッカレラが聴衆に手を振ったことが事故につながったという旨を聞き出したとのことです。(ヴァッカレラはそれを否定しています)

330 P4 の脱落で、スクーデリア・フィリピネッティの 412 P がトップに立ちました。 412 P を4台のポルシェが追いかけます。

5周目に412 P を交わしたシュトメレン/ホーキンス組のポルシェ 910/8 がトップに立つと、残り5周もトップを維持してゴールしました。さらに、チェッラ/ビスカルディ組のポルシェ 910/6、ニールパシュ/エルフォード組のポルシェ 910/6 が続き、ポルシェは1-2-3フィニッシュを決めています。

1967 Winner – Rolf Stommelen / Paul Hawkins
– Porsche 910/8

1967 2nd – Leo Cella / Giampiero Biscaldi
– Porsche 910/6

1967 3rd – Jochen Neerpash / Vic Elford
– Porsche 910/6

3台のポルシェの後に、US のプライベータ NART のディーノ 206 SP がゴールしますが、フィニッシュラインを通過したフェラーリは、ワークス、プライベータを合わせた7台のうち、その1台のみでした。(フェラーリの完走率は 1 / 7 = 14% 、 タルガ全体の完走率は 17 / 63 = 27% 、ポルシェの場合、7 / 13 = 54% となっています)

ニーノ・ヴァッカレッラのオーバーテイク

1968 Porsche 910

1969 Lola T70 Mk.3B GT

1970 Porsche 908/03

1970 Ferrari 512S

1970 Alpine A110

1971 Porsche 908/03

1972 Ferrari 312PB

1973 Ferrari 312PB

1973 Alfa Romeo 33 TT12

当然のこととはいえ、マン島TT同様、公道レースの危険性が指摘され、1973年を最後に世界スポーツカー選手権から外されてしまいますが、

タルガ・フローリオ自体は国内レースとして引き続き行われます。

58   1974   Gérard Larrousse       Lancia Stratos
            Amilcare Allestrieri
59   1975   Nino Vaccarella        Alfa Romeo 33 TT 12
            Arturo Merzario
60   1976   Armando Floridia       Osella
61   1977   Raffaele Restivo       Chevron

1974 Winner – Lancia Stratos HF

1975 Winner – Alfa Romeo Tipo 33/TT12

1976 Winner – Osella BMW PA4 Amphicar

タルガ・フローリオの終焉

1977年の第61回タルガ・フローリオは、全長72kmのチルクート・ピッコロを8周する予定でしたが、5周目にコースオフしたオゼッラのマシンに、観客4人が巻き込まれてしまいます。ドライバーは意識不明の重体(後に回復)、観客は2名死亡、2名重症という大惨事となりました。

レースは中止となり、順位は4周終了時の成績で付けられています。

1977 Winner – CHEVRON B36 BMW2.0

この年をもって、タルガ・フローリオの歴史に終止符が打たれました。

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コッレザーノ・コーナー
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タルガフリーリオの最も有名な観戦ポイントのひとつは、コッレザーノ村のヴィア・ポリッツィ2番地(Via Polizzi 2, Collesano)のヘアピンコーナー、通称「コッレザーノ・コーナー」です。


1964 Ferrari 250 LM

1965 Ferrari 275 P2

1966 Ferrari 250 GTO

1966 Alfa Romeo TZ-2 and Alpine A110

1967 Ford GT40

1970 Alfa Romeo T33/3

1972 Ferrari 312 PB


1969 Porsche 908/02

1970 Porsche 908/03

1971 Alfa Romeo T33/3

1973 Porsche 911 Carrera RSR


1965 Ferrari 500 TRC

1965 Austin Healry 3000

1966 Ferrari 250 GTO

1966 Shelby Cobra 427

1968 Alfa Romeo Tipo 33/2

1969 Alfa Romeo Tipo 33/2

現在のコッレザーノ・コーナー

1/32で再現するコッレザーノ・コーナー

英国の模型メーカー「マグネティック・レーシング」は、1/32のスロットカー用の情景アクセサリとして「タルガ・フローリオの有名な建物」を市販しています

ここは「ペデストリアン・ブリッジ」も出しており、目を見張るばかりです

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タルガ・フローリオのピットワーク
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シリアスなコースオフ
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タルガ・フローリオの王者ポルシェ
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タルガ・フローリオのツイスティなコースはポルシェ向きで、総合優勝11回と最多を誇っています。


1956 / 1958


1959 / 1960


1963 / 1964


1965 / 1966


1967


1968


1969 / 1970


1972 / 1973

タルガ・フローリオを制したブランドはポルシェを含め18しかありません。

 ●アルファロメオ(10回)
 ●フェラーリ(7回)
 ●ランチア、ブガッティ(5回)
 ●マセラティ(4回)
 ●メルセデス・ベンツ、FIAT、SCAT(3回)
 ●ナッザーロ(2回)
 ●シェブロン、オゼッラ、フレイザー=ナッシュ、プジョー、フランコ、SPA、イソッタ・フラスキーニ、イターラ(1回)

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タルガを彩る落書き
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空飛ぶ校長 ニーノ・ヴァッカレッラ
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1933年3月4日、シチリア島の州都パレルモ生まれた「ニーノ・ヴァッカレッラ」ほど、シチリアの人々に愛されたドライバーはおりません。

ニーノは、1957年(24歳)に始まり1975年(42歳)で終わる18年間のレース人生において、117レースを制しています。フェラーリやアルファロメオのワークスドライバーを務め、F1にも5戦出場していますが、それよりもスポーツカーやプロトタイプカーでの活躍が多くの人の記憶に残っています。

特にタルガ・フローリオにおいては「オリヴィエ・ジャンドビアン」「ウンベルト・マリオーリ」と並ぶ最多優勝記録(3回)保持者となっています。

「子供の頃、リベルタ通りに住んでいました。ジーロ・デ・シチリアに参戦するレーシングカーが到着するアルファロメオ・ディーラーのすぐ裏です。ジーロ・デ・シチリアを観て、レーシングドライバーになろう、いやチャンピオンになろうという情熱が私の中に芽生えたのです」

「競争心は旺盛で、車に乗るといつも競争していました。若かったのです。周りの人に自分が一番速いことを証明したかったのです。何度か事故を起こしもしました。20歳の時、買ったばかりの父の新車『フィアット 1100/103』を橋にぶつけて壊してしまったこともあります。父は私を危険人物と断じて運転を禁じました。それでも父の目を盗んで運転は続けていました」

「1956年に父が亡くなると、父によって創立されたオリアーニ学院の経営に携わるようになります。父の死の数ヶ月後には、父が残した1100で、初めてのレース『パッソ・デ・リガーノ=ベッロランポ』に出場し、クラス5位に入っています」

パレルモの大学に進学したニーノは、1956年に法学の学位を取得すると、同年、姉のアダと共に私立学校オリアーニ学院の経営に参加、学院ではレースの傍ら教鞭もとっていました。後に校長に就任しており、彼の「空飛ぶ校長」の愛称は、それが由縁ですが、実のところ、彼がレース活動を行っていた頃は、アダが校長で、ニーノは副校長で過ぎなかったのです。

「1957年、初めて自分の車として2500㏄の『ランチア・アウレリア』を購入しました。この車は当時としては速かったものの、運転が難しい車でした。しかし期待を裏切ることなく、私が競技者として成長するのを助けてくれました」

「1958年、アウレリアで『パッソ・デ・リガーノ=ベッロランポ』において初優勝を果たしました。他にいくつかのレースで優勝し、レーシングキャリアはすぐに軌道に乗りました」

「1959年、レーシングキャリアを続けられると確信した私は、スポーツカーカテゴリーに進出することを決意します。『フェラーリ・テスタロッサ』はあまりにも高価だったので、モデナのマセラティに行き、1958年のイタリア国内チャンピオン『アドルフォ・テデスキ』が所有していた『2000スポーツ』を購入することにしました。この車のおかげで、シチリア、そしてイタリアのトップドライバーたちと競い合うことができたのです」

7回優勝できたはずのタルガ・フローリオ

タルガ・フローリオのスペシャリストとして知られるニーノのアドバンテージは、地元シチリアの道を誰よりも熟知していることでした。

「1メートルごとにコースを把握していました。あの家のところでアクセルを踏めることも、あのオリーブの木の先にはこんなカーブがあることも、『ニーノ』と書かれたあの壁でブレーキをかけなければならないことも・・・」

「ラップごとに安定した走りをすることも重要です。私よりも速いタイムを出すドライバーもいましたが、彼らはしばしばコースアウトしていました」

「みなが私のことを『タルガ・フローリオの男』なんて呼んでいて、確かにそうでしたけれども、私はタルガを特に好きだったわけじゃありません。私は『ハイスピードの男』で、ル・マンやスパ・フランコルシャンの高速コーナーが大好きでした。タルガはそれほどスピードが出るわけではありません」

「私がタルガ・フローリオで勝てたのは、そうしなければならなかったから。何よりも私がシチリア人だから。今思えば、タルガ・フローリオでは、(勝てたレースを落とさなければ)3勝ではなく7勝できたはずです」

ニーノのタルガ・フローリオ戦歴

1957年
#202 ランチア アウレリア B20
ペア:なし
予選:不明
決勝:総合109位

1958年
#30 ランチア アウレリア B20
ペア:エンリコ・ジャコーネ
予選:不明
決勝:リタイア

1959年
#138 マセラティ A6GCS
ペア:ジュゼッペ・”ソリメコス”・アロッタ
予選:不明
決勝:総合10位

1960年
#200 マセラティ Tipo 61
ペア:ウンベルト・マリオーリ
予選:不明
決勝:リタイア

1961年
#152 マセラティ Tipo 63
ペア:モーリス・トランティニアン
予選:不明
決勝:総合4位

1962年
#108 ポルシェ 718 RS61
ペア:ジョー・ボニエ
予選:不明
決勝:総合3位(クラス1位)

1965年
#198 フェラーリ 275 P2
ペア:ロレンツォ・バンディーニ
予選:1位
決勝:総合優勝

1966年
#230 フェラーリ 330 P3
ペア:ロレンツォ・バンディーニ
予選:不明
決勝:リタイア

1967年
#224 フェラーリ 330 P4
ペア:ルドヴィコ・スカルフィオッティ
予選:不明
決勝:リタイア

1968年
#220 アルファロメオ Tipo 33/2
ペア:ウド・シュッツ
予選:不明
決勝:リタイア

1969年
#262 アルファロメオ Tipo 33/2
アンドレア・デ・アダミッチ
予選:不明
決勝:39位

1970年
#6 フェラーリ 512 S
ペア:イグナツィオ・ギュンティ
予選:3位
決勝:3位

1971年
#5 アルファロメオ Tipo 33/TT3
ペア:トワーヌ・ヘゼマンス
予選:1位
決勝:優勝

1972年
#1 アルファロメオ Tipo 33/3
ロルフ・シュトメレン
予選:3位
決勝:リタイア

1973年
#3 フェラーリ 312 PB
ペア:アルトゥーロ・メルツァリオ
予選:1位
決勝:リタイア

1975年
#1 アルファロメオ Tipo 33/TT12
ペア:アルトゥーロ・メルツァリオ
予選:1位
決勝:優勝

4 thoughts on “トヨタ博物館 (1/8) 明治時代 (1868-1908) その1

  1. 先刻ご覧になっているかもしれませんが、1965年タルガフローリオ、カストロールによる記録映画を見ると、路面の荒れ方は相当なものでした。

    マシン上陸(水揚げ)や練習走行などの様子も収められていて、一般交通、対向車もいる中を練習車両でブッ飛ばす模様は驚愕ものです(笑)

    スピンナーを銅ハンマーで容赦なくぶっ叩いている(誤ってホイールやボディを叩くこともあるだろうに!)様子や、コース脇に陣取る観客の様子など、非常に生々しく熱や匂いまで伝わって来そうで、何より壁や路面の落書き(殆どフェラーリ関連や地元バッカレラを応援するもの)には思わず笑ってしまい、内緒で真似したくなります(^^)

    今どきのお上品なクラシックカーラリーからは想像もつかない、どのマシンも情け容赦なくぶん回して(素晴らしいエンジン音!)度重なるコースオフで”モディファイされていく”ことなど委細構わず、一般道、特に市街地のコースを全力で駆け抜ける姿にはシビレまくってしまいます。

  2. おっしゃられている記録映画はこれでしょうか?

    昨今の古いものなら何でも持ち上げる風潮を首肯する気は毛頭ありませんが、こと自動車そしてオートバイレースに関しては、60~70年代が最もロマンチックでエキサイティングな時代だったと声を大にして主張したいですね!

  3. まさにそれです!

    車両の陸揚げの段階からスリルやリスクがいっぱい(笑)
    牧歌的イメージの住民生活とのギャップは島を挙げてのお祭りを思わせるもので、
    世界選手権レベル~田舎のヘタッピー(失礼!)までが、継ぎはぎだらけの生活道路で競い合う様子は(レースやチームの運営など経済面まで含め)上部組織による管理やリスク排除が再優先され、変動要素が少なくなった現代とは異次元の感があり「何が起きるだろうか?」というモーターレーシング本来の面白みが凝縮されているように思います。

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