2016/11/13 第6回 アメリカン・ヒストリック・カーショー (2/2)

前稿でご紹介しましたアメリカン・マッスルはアメ車らしいアメ車といえますが、この稿では、それ以上にきわめてアメリカ的といえるクルマたちをご紹介します。

フルサイズ・セダン&クーペ

世界中の人たちがこれらのクルマを通し、アメリカ人のべらぼうな豊かさを見せつけられたのです。

5th リンカーン・コンチネンタル

5th リンカーン・コンチネンタル・タウンクーペ

6th リンカーン・コンチネンタル

リンカーン・カプリ

フォード・フェアレーン

クライスラー・ニューポート

キャディラック

シボレー・ベルエア

コンパクト

どこがコンパクトなんでしょう?

ナッシュ・メトロポリタン(1953 – 1961)
コンパクトで省燃費ながら高性能なヨーロッパ製自動車に対するアメリカ流解釈。アメリカで設計され、英国(BMC)で委託生産されています。アメリカらしくないような、むしろらしいというべきか。なんにせよ、極端なんですよ。

ホッドロッド

クルマのチューンは、禁酒法時代(1920(大正9)年から1933(昭和8)年)、ギャングが警察車両から逃走できるよう行ったものが始まりとか?

ワゴン

日本ではライトバンと呼ばれ、仕事グルマ丸出し、ダサいクルマの典型だった時代。アメリカではレジャー用のセカンドカーとして、むしろ豊かな生活のあらわれでありました。

エアストリーム・トラベルトレーラー
電車の製作技術の転用でしょうか、アルミシートとリベットでくみ上げられたトレーラー。

ミニヴァン

ピックアップ

アメリカ人といえども、ひとりが複数台のクルマを所有することは、なかなか簡単ではなかった時代。仕事と遊びを一台で済ますことのできる車として人気を博し、4WDと組み合わされたりしつつ、現在でもゆるぎない人気カテゴリーにあります。

SUV

ミニヴァンやピックアップなど、仕事グルマを遊びにも使う、というコンセプトが昇華して生まれたのがSUVでしょう。

いまやポルシェのみならず、ランボルギーニ、マセラティなどイタリアのスーパーカーメーカーがこぞって(US市場に向け)SUVを出す時代です。いずれフェラーリからも出るかもしれません。

ジープ

そして、ジープがSUVの祖先にあたります。もっともアメリカらしいクルマといえましょう。

 
とことん貧しかった日本に降り立った”宇宙船”がジープでした。

実は、この「世界でもっとも有名な自動車」の生誕には、悲しい物語があります。

第2次大戦勃発

1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻を開始したことを契機に第二次世界大戦が始まります。ドイツ機甲師団の電撃作戦における小型車両(キューベルワーゲン)の活躍ぶりに驚嘆したUS陸軍は、自軍にも悪路の走破性の高い小型の四輪駆動車を配備することを決定し、1940年5月、国内の自動車メーカーに対し、当該車両の開発の緊急要請を行います。

1939-45 VW Kübelwagen

RRで、4輪駆動ではありませんでした。

アメリカン・バンタム社

アメリカン・バンタム社は、英国オースチン製小型車をライセンス生産をする会社として1929年に設立されたオースチン・バンタム社を前身としています。ヨーロッパ流の小型車を「アメリカ唯一の経済車」と標榜し、大型車中心のUS市場に売り込みを掛けましたが、試みはうまくいかず、1934年に倒産。翌1935年には、アメリカン・バンタムの名称で再出発を果たしますが、従業員数わずか15人の零細企業で常に経営難にあえいでいました。バンタム社は、この軍からの車両開発要請を瀕死の会社の起死回生の切り札と考え、背水の陣で取り組むことにしたのです。

零細ゆえ社内に適切な人材を持たなかったアメリカン・バンタム社は、オースチン・バンダム時代の設計技師、カール・K・プロブストを招聘するのですが、プロブストが果たした貢献はきわめて大きいものでありました。

ブロブストは、軍の提示したスペックのうち、1,275ポンド(約580kg)という車両重量以外はすべて実現できると判断すると、早々に要求された車両重量を無視することに決め、車両重量2,000ポンド(1トン以下)級の車として開発を進めます。(実現不可能の数値なので上方修正されるだろう、と考えたのですが、実際そうなりました)このような賢明な判断があったおかげで、バンタム社は2カ月足らずという驚異的な短期間で、世界で最も有名になる車両を仕立て上げることに成功したのです。

Karl Knight Probst

プロブストがアメリカン・バンタム社の一員として仕事を開始したのは1940年7月17日でしたが、入札日はわずか5日後の7月22日に迫っていました。ブロブストは、最初から超人的な処理能力を見せています。基本設計の青図面、見積もりのための原価計算といった入札に必要な書類の作成という膨大な量の仕事を、見事、入札前日までに終わらせています。

当日、入札会場に現れたのは、ウィリス・オーバーランド社およびアメリカン・バンタム社の2社のみでした。ウイリス社の入札額はバンタム社よりも低いものでしたが、ウイリス社は、9月23日の期日までに最初の試作車の引き渡しができない場合があるという条件を付けていたため、軍配はバンタム社に上がったのでした。(実はこの入札には、零細なバンタム社に不安を感じた陸軍補給本部が、軍と関係の深いウイリス社を気乗りしないまま引っ張り出したといわれています)

バンタム社が入札に勝つと、、新たに集められた3人の技術者で強化された開発チームが、47日間休む暇もなく働き続けたおかげで、はたからは完成は絶望的とみられた中、9月23日の納車締め切り日の2日前の21日、ついに試作車の実走テストにこぎつけることができました。テストは2日間で240kmに及び、初日のテストで判明した問題は、ただちに対策が施され、翌日のテストで解決されたことを確認するというタイトな作業となりました。こうしてなんとか締め切り直前で完成した第1号試作車が、納車場所に指定されていたキャンプ・ホラバードに到着したのは、9月23日午後5時の締め切りわずか30分前でありました。

1940 Bantam pilot model
1940年9月21日、第1号試作車の完成直後。
助手席に座っているのが社主フランク・フェン
プロブストは一番左。

ホラバードでは、バンタム第1号試作車に対する過酷なテストが7月27日から10月16日に渡って行われ、リストには、重要なものから些細なものまで問題点が、ずらりと並ぶことになりました。とはいえ、第1号試作車には、総合的にきわめて高い評価が与えられ、アメリカン・バンタム社へ追加の69台の発注が決定されました。



1940 Bantam pilot model testing

12月には、テスト中に判明した問題を改修した車両(Mk.I / BRC-60)が納入され、引き続き評価試験が行われました。

1940 Bantam Mk.I (BRC-60)

BRCは、Bantam Reconnaissance Car(バンタム偵察車)の略。パイロットモデルからフロントフェンダーの形状が変更されています。

バンタム社が納めた2次試作車69台のうち、8台には4輪操舵が装備されていました。

陸軍は4輪操舵にこだわりがあった模様で、以下で紹介するバンタムBRC-40の他、競合試作車であるウイリス・クアッド、フォードGPにも4輪操舵を装備した車が必ず含められていました。(フォードGPにおいては50台も造られています)ただし、最終的に制式採用となったウイリスMBには4輪操舵は採用されていませんでした。

大メーカーからの横槍

キャンプ・ホラバードでのバンタム車のテスト現場には、ウイリス社とフォード社の役員が立ち会っていました。陸軍補給本部は、バンダム社から提出を受けた図面や仕様書をウイリス社とフォード社に流し、それを参考に試作車を作るよう仕向けていたのです。

表向きは、あまりに零細なアメリカン・バンタム社の車両生産能力に懐疑的な補給本部が、安定供給元を求めてウイリス社とフォード社に白羽の矢を立てたことになっていますが、実のところ、補給本部と両メーカーは情実関係にあったと言われています。

各メーカーにおいて、当初は取るに足らない小型車と思っていたものが、形になってみれば極めて高い将来性を秘めていることが分かり(実際、自動車界における革命でありました)、アメリカン・バンタム社のような弱小会社に、みすみすパイを独占させておくのは看過しがたい、という判断が働いたのでしょう。

1940年11月までに、補給本部は新たに非常に重要な決定を下します。非現実的であった1,275ポンドの重量基準を2,160ポンドまで引き上げたのです。これは実質、フォードの試作車を見据えた措置でありましたが、バンタム車にとっては余裕にクリアする規制値となりました。しかし、他車より大きなエンジンを持つウイリス車はまだまだ重量過多にありました。(ウイリスは優位点となっていた大排気量エンジンを捨てることなく、車体側で徹底した軽量化を行うことで基準をクリアするに至ります)

こうして、1940年11月11日にはウイリス製試作車「クアッド」が2台(うち1台は4輪操舵機能が持たされていました)、遅れて同月23日にはフォード製試作車「ピグミー」が1台、テストを受けるためにホラバードに納められました。それら2車は、バンダム社の図面を基に造られたため、非常によく似た車になっていましたが、各車に特徴はあり、軽量なバンタム車は燃費が良く、より大きい排気量を持つウイリス車はエンジン性能に優れ、乗用車を造り慣れたフォードは乗員の快適性に注意を払っていた、と言われています。

1940 Willys Quad

1940 Ford Pygmy

フォードはもう一台試作車を用意していました。基本構造は同じながら、電車や自動車の車体製造で著名なバッド社にボディ製作を委託したピグミー、「バッド・ピグミー」、通称「バディー」です。こちらはホラバードのテストには送られませんでした。

1940 Ford Budd/Pygmy (Buddy)

第2次試作車のレンドリース法による実戦配備

1940年10月18日、補給本部は、当初の1,500台の調達に関し、バンタム社、フォード社、ウイリス社に、それぞれ500台ずつ割り当てる旨を明らかにします。これを知ったバンタム社は、陸軍長官に抗議文を送ります。バンタム社のみが正規の手続きを経て認められた会社であるという事実を強く主張したのは当然のことでしょう。(ウイリス・クアッド、フォード・ピグミーともまだテストもされていなかった時点の話です)

抗議を受けた陸軍長官は、事の経緯を鑑みて、1,500台すべてをバンタム社に発注すべきと決定するも、補給本部は、これに異を唱えました。理由は上で書いたとおり、バンタム社の生産能力を危惧してのこと。とはいえ、補給本部は陸軍長官の命に同意せざるをえませんでした。この件にはさらに展開があり、最終的に陸軍は3社に対して、それぞれ1,500台づつ注文をすることで話は落ち着いたのです。

さらにいえば、3社でそれぞれ1,500台ずつとした契約は、バンタム社とフォード社に対しては拡大され、各社の試作車の改良型であるバンタム Mk.II(BRC-40)、ウィリスMA、フォードGPのそれぞれ、2,605台、1,530台、4,456台が陸軍に納車されています。

1941 Bantam Mk.II (BRC-40)

1941 Willys MA

1941 Ford GP

こうして数がそろった3社の小型4輪駆動車は、レンドリース法に基づき、すでに独軍と交戦状態にあった英軍とソ連軍に供与され、実戦にてテストが行われることになります。

ソビエト軍で使用されるバンタムBRC-60

イワンは最初のジープをバンタムから手に入れた

ウイリスMBの制式採用

1941年7月、ウィリスMAが、3車中もっとも優れていると評価されると(次点がバンタムMK.II、最下位がフォードGPでした)、ウイリスMAに他2車の優れた部分を可能なかぎり採り入れたウイリスMBが造られることになり、それが米軍規格「1/4トン 4X4 トラック」として制式採用となりました。世界で一番知られた車の名称「ジープ」は、この「1/4トン 4X4 トラック」に対する、その使用現場で生まれた愛称というのは、よく知られた事実でしょう。

 初期のウイリスMBのフロントグリル形状を「スラットグリル」と呼んでいますが、これは元々、フォードGPが持っていたデザインを移植したものです。

1942 Willys MB (Slat grill)

まもなくスラットグリルに代わってジープの象徴となる9本の縦格子デザインが採用されます。

1942-45 Willys MB

ウイリスMBの性能は評判に評判を呼び、当然の流れとして生産量の拡大の判断がなされると、強力な大量生産能力を持つフォードへの完全互換車の生産委託が決まります。フォード製ジープは、GPW(GP Willys)と命名されました。

MBとGPWを簡単に区別する方法があります。MBのフロントバンパー中央には、手動でエンジンを始動する際のクランクハンドルを差し込む小さな穴が開けられていますが、GPWにはその穴の他、バンパー両端にもさらに2つの穴が開けられています。

1942-45 Ford GPW

ちなみにフォードはGPWのコンポーネントを流用して、非常にユニークな水陸両用車を生産しています。その名は GPA (GP Amphibious) 、愛称はシーゴーイング・ジープから「シープ」です。

1942-43 Ford GPA

実のところ、シープの元ネタもドイツ軍の水陸両用車「シュビムワーゲン」にあるのですが。

1941-44 VW Schwimmwagen

キューベルワーゲンとは異なり4輪駆動でした。
水上では10km/hで航行します。

1942年から1945年までの3年間で、ウイリスMBは36万1,339台、フォードGPWは27万7,896台生産され、戦場で縦横無尽の大活躍したことはよく知られています。

ジープ生産からのバンタム外し

ジープ誕生に多大の功績があったアメリカン・バンタム社は、ジープ生産においては完全に蚊帳の外に置かれてしまいました。バンタム社は、その生産の役に備え、工場を拡張し従業員も増やしていたので、補給本部がいう「零細ゆえ、十分な生産台数を期待できない」というレベルは、もはや脱していました。また、「複数の供給先をもつことが望ましい」という方針は、ウイリス社とフォード社を後から加えた理由になるにしても、バンタム社をジープの製造から外した理由にはなりません。誰もがそこに、フォード(とウイリス)がバンタム社が戦後の競争相手に成長しないよう潰しにかかっている、という構図を見たのです。

この「事件」は、決して闇に葬られてしまったわけではなく、当時のマス・メディアは「補給本部と大メーカーとの情実主義」として大々的に報道さえしています。それに対し、陸軍省の政策を決定する大統領委員会はジープ生産の契約は3分割すべき、と明言しました。それにもかかわらず、補給本部はそれに従うことはありませんでした。

ジープ生産の代わりにバンタム社に充てがわれた仕事は、ジープが牽引する水陸両用トレーラー(米軍規格「トレーラー・カーゴ・アンフィビアン 1/4トン」)の生産でした。ウイリス社が生産するトレーラー「 MB-T 」と同設計で、バンタム製は 「BT-3 (Bantam Trailer 3) 」あるいは単に「 T-3 」と呼ばれ、1945年の終戦までにウイリス製が約60,000両、バンタム製は約74,000両が造られています。


大戦中には2,000人以上いたバンタム社の従業員も、大戦後は1/10以下にまで滅った中、細々と民生用トレーラーの生産を続けていましたが、1956年、バンタム社はついに倒産、アメリカン・ローリング・ミルズ社に吸収されてしまいます。ジープ誕生の最大の貢献者として、なんとも悲しい結末と思わざるを得ません。

一方、ウィリス・オーバーランド社とて、戦後は安泰の道を歩んだわけではなく、1953年にカイザーに買収されると、1970年にさらにAMCに買収されています。1980年にルノー傘下となったAMCは、1987年にクライスラーに買収され、現在ジープの商標はクライスラーが有しています。

Kaiser Willys (1958)

AMC Jeep (1974)

AMC Jeep RENAULT (1983)

3つのブランドが並んで表記されています。


Chrysler Jeep (1988)

  

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