2015/12/06 谷保天満宮旧車祭 (2/2)

1981 日野 ブルーリボン

観覧無料のイベントの上、無料のシャトルバス(国立駅⇔谷保駅)まで用意しているという周到ぶり!「銀河鉄道」が所有するブルーリボンは「草軽交通」から譲り受けた1981年式とのこと。

1910 ロールスロイス 40/50HP シルバーゴースト

正式な車名は「40/50HP」で、その意は、課税馬力40HP級と、実馬力50HPを併記したものです。「シルバーゴースト」は本来、とある銀色のボディを持った1台のみの愛称でしたが、その車両が連続24,000kmに及ぶ耐久テストをトラブルなく終えたことで、あまりに有名になったため、後年、正式な車名として採用されました。この「シルバーゴースト」が、その後のロールスロイスの「ファントム(亡霊)」や「レイス(生霊)」といった一連の命名法の端緒となったのでした。


ベントレー コンチネンタル コンバーチブル

ロールスロイス コーニッシュ コンバーチブル

ベントレー コンチネンタルの兄弟車。後ろ姿のみ。

1964 モーリス ミニ クーパーS Mk.I

ローバー ミニ Mk.IV

最後の10インチホイールモデルでしょうか。

1966-67 ロブ・ウォーカーGTS

「ロブ・ウォーカー」は50年代初頭から70年代初頭まで活動していたF1チームで、スコッチ・ウイスキーのジョニー・ウォーカー創設者の子孫であるロブ・ウォーカーが私財で運営していた純然たるプライベート・チームです。(この車のようにボンネットに引かれた横一本ラインがロブウォーカー流です)

ミニ・クーパーがF1コンストラクターであるクーパーによってエンジンをチューンされたミニであるのと同様、ロブ・ウォーカーGTSは、ロブ・ウォーカーのファクトリーで車高を低くされたミニです。

レースでアドバンテージを得るために前面投影面積をより小さく抑えたミニを作るという構想を持っていたネビル・トリケット(Neville Trickett)に、1965年、同じくミニでレースをしていたジェフ・トーマス(Geoff Thomas)が出資者として合流。他2名と合わせ計4名によってウォーリズダウンのガレージでネビルの構想を形にすべく製作が開始されます。

MiniSprint
翌1966年、3インチ(75mm)ほど車高を切り詰められたレーサー1台とロードバージョン1台が完成し、「ミニ・スプリント」として発表、販売のために「G.T. エクイップメント」社が創設されます。まもなく、より良い製作環境を求め、ロブ・ウォーカーが所有するコースリー・ガレージ(オースチンとジャガーのディーラー)に工房が移されます。この縁で「G.T. ミニスプリント」は「ロブ・ウォーカーGTS」の名前でも世に出ることになります。

robwalker
プロジェクトはロンドン最大のBLディーラー、「スチュアート&アーデン」に売却され、ネビルやジェフの手を離れてしまうまでに 85 台のミニスプリント/ロブ・ウォーカーGTSが作られました。(ミニスプリント自体は「S&A ミニスプリント」として販売は継続されます)

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ヴァンデンプラ プリンセス1300 Mk.III

ヴァンデンプラ プリンセスはバルブ期に、「MH」の流行雑誌「P」で紹介されたり、TVドラマの劇中車に使われたりで、ちょっとしたブームが起き、その時に知名度が高まったと記憶しております。

ベルギーのヴァンデンプラはイギリスに支社を置くと、ロールスロイスやベントレーなどのコーチワークで名声を博していましたが、第二次世界大戦後の不況でオースチンに吸収されてしまいます。まもなくオースチンも大掛かりな業界再編成で BMC の一員に組み込まれると、ヴァンデンプラは BMC の高級ブランドに位置づけられるようになります。

Austin1100

1963 Austin 1100 (ADO16)

BMC のアレック・イシゴニスは、ADO15(ミニ)に続き、「大きなミニ」、ADO16 を開発します。ADO16 はBMCが持つ6つのブランドから異なる車として販売されることになりますが、そのヴァンデンプラ版が「ヴァンデンプラ プリンセス」(1964年)です。

元々、大衆車である AOD16 に、ヴァンデンプラ流の外装アレンジのみならず、ウォールナット張りのメーターパネルやピクニックテーブル、コノリーレザーを張ったシートなど大型高級車の内装様式をそのまま持ち込むと、「小さな高級車」としてロースロイスに乗るような階層の人にも支持されるようになります。

ヴァンデンプラ プリンセスは1974年までの長きに渡り生産され、最後まで残った ADO16 のひとつとなりました。

1964 トライアンフ TR4

1935 MG Nタイプ マグネット

1954 MG TF 1500

MG ジェット Mk.II

MG ミジェット Mk.III

MG ミジェット Mk.III

でいいのかな?

MG ミジェット with アシュレー ボンネット

1959 MG A

MG B

1979 MG B

1967 ヒルマン インプ スーパー

ジャガー Eタイプ Sr.1 FHC

ジャガー Eタイプ Sr.2 DHC

1964 オースチン・ヒーレー 3000 Mk.III

1962 ロータス スーパー7

1968 トヨタ スポーツ800 / 1968 モーガン プラス4

TVR キミーラ

英車のハイパワーエンジンとしてお約束といえるローバー製V8を搭載。

このV8は元々、GM(ビュイック)製で、ヘッドはOHVでしたがエンジンブロックはオールアルミ製とデビュー当時(1961年)としては先進的な設計でした。早くも1963年にはGMがコストのかかるアルミ製V8の生産の中止を決めると、ローバーが一切の生産設備を購入し、1965年から生産を継続します。途中、排気量を 3.5L から 4.6L まで拡大しながら(TVRは独自に 5.0L まで拡大)、2005年のローバー倒産まで40年間という長きにわたり基本設計を維持したまま作られ続けます。

1993 ジネッタ G12

1982 パンサー カリスタ

1959 エルバ Mk.V

1972 GTM

GTMは、1967年、「バーナード・コックス」と「ジャック・ホスカー」によって Cox GTM として設立され、まもなく事業は、レースでGTMを使っていた「ハワード・ヒーレー」に引き継がれます。その活動は1972年まで続きましたが、それ以降は、ブランドの所有者ばかりが二転三転するだけで車が作られることはなく、世の中から忘れかけられた存在となっていました。1980年に意欲ある買収者による新生GTMが発足すると、新作のキットカーをリリースしながら2002年まで存続しています。

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初期の「Cox GTM」時代の車両

数え切れないほど存在していたミニのコンポーネントを使ったキットカーの中でも、GTMのようにFFユニットをそのまま後ろに持ってきてミッドシップとした車両を、ここに集めてみました。

ミニのキットカーは1962年から69年までの7年間に、4メーカー、8台がルマン24時間耐久レースを走っています。これら4メーカーはキットカーの中でも一目おかれるべき存在だと思われます。

    1962年 Gitane GT
    1963年 Deep Sanderson 301 (#44 DNF)
    1964年 Deep Sanderson 301 (#42 DNF / #66 DNS)
    1966年 Mini Marcos Mk.1 (#50 15th)
    1967年 Mini Marcos Mk.3 (#50 DNF)
    1968年 Deep Sanderson 301
    1969年 Unipower GT

このうち、「ディープ・サンダーソン301」と「ユニパワーGT」がミッドシップ車です。

ディープ・サンダーソン 301

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1963年 ルマン
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1964年 ルマン
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ユニパワーGT

キットカーは既成パーツの寄せ集めという制約ゆえか、醜いデザインのものが多い中、ユニパワーは珍しく破綻の無いボディラインを有しています。
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1969年 ルマン
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以下、ルマンを走ったほどでもありませんが、本格派といえるミッドシップ車をご紹介いたします。

1970 BORO GT

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Bulanti MINI

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Coldwell MINI

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Nota Fang

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ESAP Minimach GT

キットカーといえば優遇制度がある英国製がほとんどの中、珍しくイタリア製。
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The Twinies

厳密にはミッドシップではありませんが・・・前にも後ろにもエンジンを積んだミニもご紹介しておきましょう。

ポール・エメリーのミニ・ツイン

史上初のツインエンジン・ミニは、1962年、「ポール・エメリー」によって造られました。50年代のフロントエンジン時代の F3 のレーサーであった彼は、ディスクブレーキをヨーロッパのレース界に初めて持ち込んだ人物でありました。60年代に入りレースを引退すると、ミニのチューニングに興味を集中させるようになります。まもなく、ツインエンジンのミニを形にすることに成功します。

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しかし、エメリーはふたつのミッションを同時にシフトさせるためのリンケージの技術的問題を解決できないままプロジェクトを終了せざるをえませんでした。その後、エメリーはヒルマン・インプのチューニングに移行し、第一人者として名を成しています。また、「ミニ・ジェム」の原型となった「ダート」の製作者としても世に知られています。

ツインエンジン・モーク

同じ頃、空前絶後のビッグネーム、ミニの産みの親である「アレック・イシゴニス」も同じプロジェクトに取り組んでいました。

1962年、イシゴニスは、自身の設計したモーク(ミニのコンポーネントを使ったオフロード車)の走破性を高めるため、前後にエンジンを載せ、4WD化することを構想、形にします。同じコンセプトにシトロエン2CVをツインエンジン化した「4X4 サハラ」があります。サハラは1960年から67年に渡り、実際に市販されていますが、年代的に御大イシゴニスは、4X4 サハラから影響を受けたのかもしれません。

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ツインエンジン・モークはプロトで終わりましたが、4WDは問題なく機能し、一定の成功を果たしたといえます。この2つのミニ用エンジンで4WDを実現する手法は、元F1ドライバーでF1チームオーナー、ジョン・クーパーに引き継がれます。

ツインエンジン・ミニ・クーパー

ツインエンジン・モークに試乗し、強い感銘を受けたジョン・クーパーは、そのロードバージョンを製作することを決意し、わずか6週間で形にします。

クーパーのツインエンジン・ミニは2台造られ、エンジンチューンは4基それぞれ異なるものの、概ねフロントに1.1L・84PS程度、リアに1.2L ・98PS程度のエンジンを積み、合計で2.3L・180PS程度の出力となり、車重は 720kg程度でしたから、4kg/PSを誇りました 。ブレーキは4輪ともディスク化されていますが、タイヤサイズはノーマルと同じ 5.20 x 10 から変更はありませんでした。

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この車はレースに出ることはありませんでしたが、グッドウッドにおけるクーパー自身によるテストでは、フロントエンジンを失いリアエンジンのみで走った際でも、FFミニのレコードタイムよりも2秒も速いタイムをたたき出したということです。クーパーはラリー向きの車と評しました。

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Goodwood in 1963

クーパーのツインエンジン・ミニは、1964年5月にキングストン・バイパスで突如として終焉を迎えます。クーパーが公道走行テスト中、エンジンにトラブルが起き(ギアボックスあるいはステア機構が固着?)、車は横転、瀕死の重傷を負ってしまったからです。

ダウントンエンジニアリング・ツインエンジン・ミニ

ミニのチューニングで名高いダウントンエンジニアリングも同じ頃にツインエンジンミニを製作し、1963年5月のタルガフローリオ参戦を果たしています。車両の完成はレース直前で、ほとんどテストをされないまま本番を走ったとのことです。

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「931 RFC」のナンバーを付けた#162のミニは、997ccのスタンダード・クーパーエンジンを前後に2基積み、178PSで217km/hに達しました。ドライバーはジョン・ウイットモアと前年のルマンウイナー、ポール・フレール。

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リアエンジンのラジエータートラブルによるオーバーヒートとタイヤの摩耗に悩まされ、加えてトランスミッションのシンクロリンケージが壊れたため、しばしば前後のエンジンが異なる回転で回っている始末でしたが、なんとか完走を果たします。同じダウントンエンジニアリング・チームのFFミニが総合25位(クラス4位)であったのに対し、ツインエンジン・ミニは総合27位(クラス5位)でありました。(出走は55台で完走は28台)

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BMC ツインエンジン・ミニ

「DOM 337C」 は、1965年、ラリーにおけるホモロゲージョンを取るべく、BMCによって公道車として少数造られたツインエンジン・ミニの1台。アウディ・クワトロがWRCに初参戦する1981年より遡ること16年、ラリーにおける4輪駆動の先駆と言えましょう。
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1959 ダイハツ・ミゼットMP5

1963 日野ルノー 4CV

1970 スバル 360 ヤングSS

1965 ホンダ S600

1968 ホンダ S800

1958 ダットサン 210

SUBARU 360 & 1967 日産 サニー 1000

日産 サニー 1000

1971 日産 スカイライン2000GT

1971 日産 ローレル HT2000GX

510ブルとセドリックの間を埋めるべく1968年に登場したのがローレル。HT(ハードトップ)は日産初のピラーレスで、2000GXは、直4 SOHC 2.0L のG20にSUツインキャブレターを装備し、120馬力を発揮する最強グレード。

1970 日産 セドリック スペシャルシックス

1965(昭和40)年から1971(昭和46)年まで造られた2代目セドリックのうち、後の日産の代表エンジンとなる直列6気筒OHCのL20型エンジンを初めて積んだ車両が、最上級車のスペシャルシックスです。(他グレードは直6 OHV)後のマイナーチェンジで2代目セドリック全てがL20搭載車となります。

1967 日産 セドリック ワゴン

1965 トヨペット コロナ1500

トヨタ セリカGT

1978 マツダ サバンナRX-7

1990 ユーノス ロードスター

1975 BMW 2002ターボ

量販車初(諸説あります)のターボ車が、この2002ターボです。(1973年)クーゲルフィッシャー製機械式インジェクションとKKK製シングルターボの組み合わせで直4 2.0Lから170馬力を発生、ベースエンジンの130馬力からの40馬力(30%)もの出力増を果たしています。

2002ターボには見えなくても伊達じゃないところは多々ありますが、ここでひとつ挙げるならば、ブレーキでしょうか。フロントにはベンチレーティッド・ディスクローターに対向4ポッドキャリパーの組み合わせです。特筆すべきは、ベンチレーティッドのためディスク厚が増したためか、キャリパーボディの間にカサ増ししてあるところです。

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ここで、2002ターボで有名なうんちくをカマしておきましょう。

2002ターボのオーバーフェンダーはオリジナルはリベット留め(下図左)でしたが、これは日本では運輸省の認可は通らず、日本正規仕様のフェンダーはバテ埋めされました(下図右)。ただし、並行輸入車は堂々、リベット留めのままでした・・・

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ここでオヤッ?と思う方は多いと思われます。GTR、240ZG、X-1R、TE27、GTO/FTO-GSR・・・過去にリベット留めオーバーフェンダーを純正装着した国産車があったではないかと!まあ、その辺の車(に乗った一部の連中)が作った「暴走」イメージが、官のオーバーフェンダー否定の見解を形成させてしまったわけなんです。

このことは当時模型化されたプラモからも偲ばれ、バンダイが2002ターボを1/20で模型化する際、日本正規輸入車を取材したのでしょう、パテ埋めのフェンダーで模型化しています。

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初期のリリースではフェンダーミラーですらありました。(意外に似合っていますが)

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1964 ポルシェ 356 SC 1600

1964 ポルシェ 904カレラGTS

1989 ポルシェ 911 カレラ

ポルシェ 911 カレラ2 / 4

1953 メルセデス ベンツ 170S

1968 メルセデス ベンツ 280SL

1970 メルセデス ベンツ 280SL

メルセデス ベンツ 300SEL 3.5

1971 メルセデス ベンツ 280SE 3.5クーペ

メルセデス ベンツ 280 / 350 / 450SL

1955 フォルクスワーゲン タイプI

1963 メッサーシュミット KR200

バブルカー(ドイツ的にはキャビンスクーター)の広告は興味をひくものが多いですね。必要最低限の交通手段(ただし現代の原付スクーターの様に決して安価ではない)の買い手にどれだけ夢を見せられるか演出の腕のみせどころと言ったところでしょうか。

女性とはいえ、リアに2人載せて大人3人が乗れることを主張。

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「耐雨サルーン」
屋根が付いています!オートバイに対する優位点を強調。

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「サンタクロース曰く、寒さに耐える必要は無くなった」
これも耐候性(ヒーター装備)をアピールしており、直接的なライバルはオートバイであることが明らか。

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普通の4輪に対抗できる点は、経済性といっているのか・・「お嬢さん、ガソリン飲まない?」(本当にそう書いてある)あ、ナンパでしたか!
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FMR KR200 カブリオレ

バルブカーの名前の由来であるキャノピーを脱ぎ捨て、幌仕様となっています。

ドイツに対する航空機製造禁止が解かれると、メッサーシュミットは航空機製造を再開、スクーター製造を止めてしまいます。KR175/200 の開発・設計者「フリッツ・フェンド」によって「FMRFahrzeug- und Maschinenbau G.m.b.H. Regensburg)」(英語では Vehicle and Engineering Inc. Regensburg)が設立されると、1957年からメッサーシュミットのスクーター製造事業を引き継ぎます。

信頼性のあるザックス(Sachs)製エンジン。あいかわらず耐候性とヒーター装備を謳っています。

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1958 FMR TG500

FMR は、2スト直列2気筒 493ccを積んだ4輪車、TG500 を販売(1958 – 1961)しますが、時代は急速に普通の自動車を求める流れにあり、もはや KR200 ほどの成功は得られませんでした。なお、この車両はメッサーシュミットを名乗ることは許されませんでした。

「Powerful as a Tiger」、Tg は Tiger の略であったことがわかります。(今更ですが、KR = Kabinenroller (キャビンスクーター)の略です)

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さらにメッサーシュミット(= FMR)は、こんな3輪スクーター「モクリ」も作っていたことは、あまり知られていないのではないでしょうか?

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1965 Messerschmitt-Mokuli Type 200A (49cc)

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オウォッソー パルス

オーナーによれば、このパルスはクアーズ・ビールの広告塔に使われた「クアーズ・シルバーバレット」号そのものとの説明がありましたが、当時の画像と比べると細部が異なるところが気になります。「シルバーバレット」号は複数存在していたようですが、仕様はどれも同じようです。カラーリングレプリカなのか、後に細部が改造されたのか・・・

このモデルには、オリジナルのヤマハXS400用空冷並列2気筒400ccに換えて、GL1200の水平対向4気筒かGL1500の6気筒のどちらかが搭載されているとか。

バタフライ形ハンドルは初期型だけの特徴で、以降は普通の円形ハンドルが使われたとのことですから、それらしさを望んでオーナーによって付け替えられたものと思われます。

実は同じ設計者の小型ジェット機が先に「シルバーバレット」号として使用されていました。それが、ジム・ベーダ(Jim Bede)による BD-5J 、キット形式で販売された世界最小(当時)のジェット機です。(ちなみにジム・ベーダは BD-5J の前に、キットフォームの超小型プロペラ機、BD-5 をリリースしています)

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BD-5J

BD-5Jは、「007 オトクパシー」(1983年)の冒頭シークエンスでボンドに操られ縦横無尽の大活躍をしたことでも有名です。

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そのジム・ベーダが、1984年頃、路上を走る「ライトスター」という乗り物を設計、販売します。ライトスターは簡単にいえば、ジェット機の形をしたオートバイです。エンジンには、250cc(ホンダ製空冷2気筒 $4,495)、450cc(ホンダ製空冷2気筒オートマチック $6,045)、750cc(ホンダ製水冷4気筒 $7,695)の3種類が用意されました。バックは電気モーターで行います。

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その後、アイオワ州スクラントンからミシガン州オウォッソーに工場を移すと、「ライトスター」で使用するエンジンはヤマハXS400用空冷2気筒に統一されます。その後、何らかの理由でジム抜きで「オウォッソー パルス」が製造されるようになります。パルスの原型はライトスターであり、両車は基本的に同じものです。

1984ないし85年頃から会社が閉じられる1990年までで347台のライトスターとパルスが製作されました。

クアーズの宣伝に使用されたパルスは下の画像の通りですが、上の車両とは細部が異なります。まず尾翼類が付いていません。

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さらにキャノピーはスライド式で、これも異なります。

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ちなみに、パルスはマクドナルドの宣伝にも使用されました。

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1942 ウイリス MB

連合軍を勝利に導いた立役者。この戦時下モデルは「MB」の他、「CJ-3A」の型式で称されることも多く、見た目では後年式よりボンネットが低いことで判別できますが、これは背の低いサイドバルブ(Lヘッド)エンジンを積んでいるため。

1951 ウイリス M38

「CJ-3A」に対し、「CJ-3B」の型式を持つ「M38」は、OHIV (IOE)ヘッド(Fヘッド)を採用したためエンジン高が高くなり、ボンネットも「CJ-3A」より高くなっています。

1959 キャデラック エルドラド

1965 フォード マスタング コンバーチブル

シボレー カマロ

ナンバーが示す通り、5.0L(305 cid) V8 を積んでいるのでしょう。

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