2015/03/08 ハーレーエキジビション (1/2)

 E藤氏が本牧のムーンアイズで行われた「船場ズ・ハーレーエキジビション」に行かれ、撮ってこられたハーレーのうち、レーサーモデルをご紹介いたします。

1994 VR1000

 ハーレー最初の、そして恐らく最後になるであろうスーパーバイク・レース用ホモロゲマシン。将来、価値が出るかもしれないと寝かされていた車両が、見切りをつけられ市場に出てきたものでしょうか?

 STACKのメーターは純正。ハーレーのロゴが入っています。

 Rサスはペンスキー。純正です。日本では見慣れないブランドですが、日本車用を中心に、いろいろ出しています。http://shop.penskeshocks.com/Motorcycle/

 Fサスはオーリンズ。純正です。当初はフロントもペンスキーで行きたかったようですが・・・

 ロッキードのFブレーキマスターは純正です。

 ブレーキキャリパーとローターはウィルウッド製です。日本では知られていないメーカーですが、NASCARにもブレーキ・パーツを供給している4輪専門のハイパフォーマンス・ブレーキメーカーで、2輪にはVR1000用のみ製作しています。

 E藤氏は「溶接部の溶け込みが甘いのではないか」とわざわざアップで撮ってきておりました。

 ハーレーのレーサーのなんたるかを理解するには、まずヨーロッパ(やその影響下にある日本)のものとは異なる US のレース制度を理解する必要があるかもしれません。というのも、ハーレーのレーサーは、最初から現在まで一貫して土着的な存在であり続けたからです。

 日本の2輪レースを統括する MFJ (Motorcycle Federation of Japan) は、ヨーロッパの FIM (Federation Internationale de Motocyclisme) 傘下にあるため、日本人はヨーロッパ流のレース制度になじんでいて、それがワールド・スタンダードと思いがちですが、ヨーロッパ以上にモータースポーツ大国の US では、独自の統括団体 AMA (American Motorcyclist Association) があり、独自のレース運営をしていることは、意外に知られていないように思われます。(これは4輪も同じで、あの F1 をして US では決して最高峰ではないどころか、ポピュラーですらありません)

AMA グランドナショナル選手権

 1954年から現在まで続く、かつてUSで最も栄誉のあった選手権です。ひとつのシリーズ内でダートとロードのレース両方が行われることで異彩を放つものでした。オーバルコースで行われるダートトラックレースの存在は日本でも何となく知られているでしょう。ロードレースは「デイトナ200マイル」が世界的に有名です。(FIMの「イモラ200マイル」はデイトナを模したレースで、両レースにお互いに選手を派遣し合うことでAMAとFIMとの交流が行われていました)

1974_daytona01

#1974年、MVからヤマハに電撃移籍することになったジャコモ・アゴスチーニの、ヤマハでの初レースは3月のデイトナ200マイルでした。アゴスチーニはデイトナ初参戦で見事優勝を果たしています。これはヤマハ初の大排気量レーサーTZ700の初レースでもありました。2位は同じTZ700を駆るグランドナショナル・チャンプ、ケニーロバーツ。ケニーは4月のイモラ200マイルに出張参戦し、デイトナと同じ2位に入賞しています。

 グランドナショナル選手権の前身となるレースは第2次大戦前から行われており、インディアンとハーレーの国内2社がその覇を競っていました。大戦中の4年間(1942年~1945年)はレースは休止されますが、戦後すぐ1946年から再開され、インディアンが倒産する1953年までの8年間は、「スプリングフィールド・マイルレース」(1マイルのオーバルコースを25周)1戦のみで選手権は争われました。ハーレーのみが国内唯一のコンデンダーとなった1954年からは、「マイル」、「ハーフマイル」、「ショートトラック(クォーターマイル)」、「TTスティープルチェイス」、「ロード」の5種のレースからなる年18戦(うちロードは5戦)からなるシリーズ戦、「グランドナショナル選手権」が整備されます。ラウンド数は徐々に増えていき、最盛期には年間30戦以上にまでに膨れ上がります。(スポンサー契約によっては、「キャメル・プロシリーズ」や「ウインストン・プロシリーズ」と呼ばれた時期もあります)

 #派手なジャンプのあるTTスティープルチェイスは日本で知られていないのではないでしょうか。

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Kenny Roberts / David Aldana


 ライバルのいないハーレーは井の中の蛙になりがちで、外敵の侵攻には億弱でした。1960年代にはBSA、トライアンフ、マチレスといった英国勢力の本格的な挑戦が始まります。AMAは国内唯一のメーカーであるハーレーと必然的にずぶずぶの関係だったため、レギュレーションをハーレーが有利になるよう設定し(サイドバルブのハーレーは排気量750ccまで。OHVの英国車は500ccまで)、英国勢を撃退すべく立ち向かうも、何度か選手権を奪われています。

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1963/1971 Champ – Dick Mann – BSA

1967triumph Gene_Romero

, 1967/1968 Champ – Gary Nixon, 1970 Champ – Gene Romero – Triumph


 70年代初頭から英国車に代わって、日本車の攻勢が始まります。

1970daytona

1970 Daytona 200 Winner – Dick Mann – HONDA

70年代はヤマハ(ケニー・ロバーツ!)が選手権を2連覇しています。

1973yamaha 1974yamaha
#いつか、君はヤマハに乗るだろう

1974champion
1973/1974 Champ – Kenny Roberts – YAMAHA
#ケニーの原動力

 80年代はホンダが4連覇しています。

1984amachamp
1984honda_dtt

1984 Champ – Ricky Graham, 1985/1986/1987 Champ – Bubba Shobert – HONDA

 ちなみに、AMAグランドナショナル選手権出身のWGP500チャンプは多く、ケニー・ロバーツ、フレディー・スペンサー、エディ・ローソン、ウエイン・レイニーらがそうです。ダートのドリフト・コントロール・センスはロードでも非常に役立つとか。

(エディ・ローソンのドリフト3態)
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eddie
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(フレディ・スペンサーのドリフト3態)
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freddie03

AMA スーパーバイク選手権

 1976年からシリーズ戦となった市販車改造クラスで、市井のチューナーが腕をふるうことのできるクラスとして、自分の愛車がサーキットで競い合うところを見ることができるクラスとして広く人気を博しました。当初は4ストローク1000ccまでの、1984年から4ストローク750ccまでのレースとなります。あまりの人気のため、AMAは1985年より、それまでフォーミュラ1レギュレーションで行われていた(TZ750以外勝ちようがなくなっていた)伝統のデイトナ200マイルにスーパーバイクレギュレーションを採用するようになります。日本でもヨシムラが活躍したことや、スーパーバイクレーサーをカスタムのお手本とするムーブメントがあったりで、このレースの詳細はよく知られています。

1985superbike
 1988年、FIMは、あまりにお金がかかるため4ストロークGPと揶揄され、停滞していたTT-F1レギュレーションに代わって、広くエントラントを集めるべく、改造範囲が限定された AMA の「スーパーバイク選手権」に準じたレギュレーションを市販車改造クラスに採用します。この「スーパーバイク選手権」のグローバル化に合わせ、1989年、AMAは「グランドナショナル選手権」からロードレースを切り離し、「スーパーバイク選手権」に統合します。この改革は「グランドナショナル選手権」の権威の相対的低下をもたらしましたが、その一方、「スーパーバイク選手権」のさらなる発展、繁栄につながりました。
 

1988年

 VR1000のプロジェクトは1988年と意外に早い時期に始まっています。

 FIMの世界耐久選手権を戦っていたドゥカティは、それまでのTT-F1レギュレーション下では苦戦していましたが、スーパーバイク・レギュレーションになるやいなや、2気筒優遇のルールを上手く利用して活躍し始めます。

 それを見たH-Dエンジニアリング担当副社長マーク・タトルは、つい最近までバトル・オブ・ザ・ツインズで我々としのぎを削りあっていた「あの」ドカが、ここまで出来るのだから、我々でも・・・という甘い読みをしたのかもしれません。ドゥカティと同じく最新スペックを持つホモロゲーションモデルを新造し、スーパーバイクシリーズに参戦するよう社に働きかけます。

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 すぐにタトルの案は承認を受け、まず設計部門のマーク・ミラーがエンジン設計に入りますが、腰下まで設計が終わったところで、翌1989年より、続きの作業は社外のロウシュ・レーシングに委託されます。ロウシュでは若きエンジニア、スティーブ・シャイベが業務を引き継ぎました。(後にシャイベは、H-Dに移籍し、ワークスチームの開発エンジニア&マネージャーになります)

1993年

 少人数による開発だったためか、VR1000の開発スケジュールは遅れに遅れ、プロジェクト開始から丸5年が経過した1993年春にようやくバイクは形になり、初の実走テストが行われます。

 DOHC4バルブヘッドを持つ60°V2エンジンは135馬力を発生するといわれています。アルミツインスパー・フレームのデザインは、アームストロングでGPマシンのフレームを設計していたマイク・イートウによるもの。オールアメリカンメイドを標榜し、サスペンションは前後ともペンスキ、ブレーキはウィルウッドとUSブランドが採用されていました。(ただし、フロントフォークは、実戦参加時までにはオーリンズが採用され、後にショーワ製に変更されています)VR1000のスペックは構想当初には大いに期待ができるものでしたが、いかんせん形になるまで時間がかかり過ぎました。登場した段階でライバルに比べ、特に出力面で大きく見劣りがする、という評価にありました。

 FIM統轄下のWSBでは、発足3年目の1990年で早くも、ドゥカティ888駆るレイモン・ロッシュがチャンピオンになったのを皮切りに、1991年と92年にはダグ・ポーレンが888でチャンピオンを獲得しており、これから10数年に渡り続くドカ・ツインによるレース支配が始まっていました。AMA統轄下でも、1993年、USに凱旋帰国したポーレンが888で、続く1994年もトロイ・コーサーが同じく888でチャンプになるなど、ヨーロッパに続きツイン時代の到来が告げられました。

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1994年

 H-Dの連中は、そういう大波を指をくわえて眺めているだけではいられなかったのでしょう。まだ開発は十分ではないという判断もある中、1994年のAMAスーパーバイク初戦、デイトナ200マイルレースにVR1000を投入することを決定します。ライダーには、実力、経験とも兼ね備えたカナダ人、ミゲール・デュハメルを起用。きっとライダーもオール・アメリカンと行きたかったところなのでしょうが、残念ながらそれは叶いませんでした。

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#17 Miguel Duhammel

 初陣決勝を68位からスタートしたデュハメルは、果敢な追い上げで20位まで順位を上げるも、22周目にエンジントラブルでリタイヤとなります。リタイヤしたとはいえ、ポテンシャルの片鱗を垣間見せたとの評価もでき、この時点では関係者らは楽観的にも明るい未来を期待したそうです。

 デイトナ後、第2ライダーにアメリカ人のフリッツ・クリングが加わります。

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#77 Fritz Kling

 ドュハメルは、VR1000の戦闘力のなさを見切ったのか、あるいは高額なギャラに見合った結果を出せなかったことで首を切られたのか、第7戦ミッド=オハイオでシフトレバーが折れるまで首位を走り続けたことを最良の置き土産にして、たったワンシーズンでH-Dチームを去りますが、皮肉にも、翌年にホンダに移ると、その年のAMAスーパーバイク・チャンピオンとなっています。

1994 Final Standings:
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 1  T.CORSER  (AUS)  DUC  273
 2  J.JAMES   (USA)  YAM  272
 3  T.SOHWA   (JPN)  KAW  251
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14  F.KLING   (USA)  H-D  133
19  M.DUHAMEL (CAN)  H-D   99
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1995年

 1995年はデュハメルに代わって、WGP帰りのダグ・チャンドラーがVR1000を走らせます。マシン開発能力を期待されての抜擢でした。

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#10 Doug Chandler

 しかし、チャンドラーは不幸にもケガのおかげで開発どころかまともに走ることすらできず、第8戦ゲートウエイでの7位を最高位にシーズンを終えると、ドュハメル同様、ワンシーズンでH-Dを離れます。これまた皮肉なことに、チャンドラーはカワサキに移ったその翌年、翌々年と2年連続でAMAスーパーバイク・チャンピオンを獲っています。

 チャンドラーのチームメイトは、ハーレーワークスのダートトラックチームから借り出されたクリス・カー。ダート界ではUSチャンピオンにもなっている大物で、かつてBOTTのプロツインクラスでXR1000ルシファーズ・ハンマーのライダーを務めたこともあります。

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#74 Chris Carr

 ハーレーを知り尽くしたカーは、非力なVR1000で果敢に攻め、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを授与されています。この年、カーはロードレースに主軸を置いたにも関わらず、ダートトラックでは総合3位の成績を残しています。

1995 Final Standings:
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 1 M.DUHAMEL  (CAN)  HON  293
 2 M.HALE     (USA)  HON  268
 3 T.KIPP     (USA)  YAM  254
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12 C.CARR     (USA)  H-D  129
15 D.CHANDLER (USA)  H-D   97
17 S.ZAMPACH  (USA)  H-D   95
24 A.FENWICK  (USA)  H-D   52
39 R.MCGILL   (USA)  H-D   31
49 M.BARNES   (USA)  H-D   21
56 B.LEFEVRE  (USA)  H-D   16
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1996年

 ワークスチームはチャンドラーに代わって参加したトム・ウイルソンと、2年目にしてダートトラックレースへの参戦を止め、ロードレースに専念することに決めたクリス・カーのコンビとなりました。

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#30 Tom Wilson

 カーはVR1000のレース史上、初かつ唯一のポールポジションを第2戦ポノマで獲得しています。

 ウイルソンは第7戦ミッド=オハイオのレースで、パワー差の出ないウエット路面の利を受け、VR1000に初勝利を与えます。しかし実際は、ゴール前に赤旗が出ていたため、レースは1周減算され、VR1000の初勝利は儚くも失われてしまいます。それでも2位となり、VR1000の初の表彰台の栄誉となりました。

 第9戦シアーズ=ポイントでは、カーとウイルソンは予選2位と3位でスタートし、決勝も同位でレースを終えますが、赤旗により再スタートとなってしまいます。再レースでは、2人はスタートに失敗し、最終的に4位と5位に順位を落としてしまい、表彰台を逃してしまいました。VR1000を駆ったカーの3年間での最高位は、結局この5位となりました。

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#12 Chris Carr

 振り返ってみれば、華々しい結果とならなかったものの、ウイルソンが随所で光る走りを見せた、この年が、VR1000にとって最良のシーズンでありました。

1996 Final Standings:
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 1 D.CHANDLER    (USA)  KAW  287
 2 M.DUHAMEL     (CAN)  HON  282
 3 T.KIPP        (USA)  YAM  258
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 9 T.WILSON, JR. (USA)  H-D  179
12 C.CARR        (USA)  H-D  136
15 A.SALAVERRIA  (USA)  H-D  123
21 T.NOBLES      (USA)  H-D   79
27 M.BARNES      (USA)  H-D   45
44 C.RAYBORN III (USA)  H-D   20
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1997年

 ライダーは前年のキャリー・オーバー、2年目のトム・ウイルソンと3年目のカーとなります。

 第1戦フェニックスでフロントロウを占めた6台。左からダグ・チャンドラー、ミゲール・デュハメル、トム・キップ、パスカル・ピコッテ、マット・ムラディン、トム・ウイルソン。このうちキップ、ムラディンをのぞく4人は現在か過去か将来のハーレー・ワークス参加ライダー(笑)

1997phoenix
 カーはこの年一杯でロードレース界から去り、ダートレースに戻ります。(復帰したダートトラックでは、1999年および2001年から2005年までの5年連続と計6回(生涯7回)、グランドナショナルチャンプとなっています)

1997 Final Standings:
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 1 D.CHANDLER    (USA)  KAW 304
 2 M.DUHAMEL     (USA)  HON 292
 3 M.MLADIN      (USA)  DUC 288
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10 T.NOBLES      (USA)  H-D 151
11 C.CARR        (USA)  H-D 135
18 T.WILSON, JR. (USA)  H-D  98
27 M.BARNES      (USA)  H-D  51
49 C.RAYBORN III (USA)  H-D  15
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1998年

 3年目となるトム・ウイルソンの相棒には、カーに代わって、カナダ人のパスカル・ピコッテが新規加入します。ピコッテは、この年から歴代ワークスライダー最長の4年間、チームに在籍することになります。  

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#21 Pascal Picotte

 この年のウイルソンは、ついに”VR1000を成功に導いたライダー”の称号を得そうだ、と期待されていましたが、残念なことに第9戦ルードンで深刻なクラッシュを起こしてしまいます。このとき負った大ケガは、レーサーを引退しなければならないほど酷いものでした。

1999年

 引退したトム・ウイルソンに代わって、USでもヨーロッパでもスーパーバイクチャンプとなった超大物、スコット・ラッセルがチームに招聘されます。デイトナ200マイル通算5勝という史上最多記録を持つ「ミスター・デイトナ」ラッセルの起用は、アメリカ人ライダーでせめてデイトナだけでも制したいというチームの願望の現れなのでしょうか。

 ただ、ラッセルは開発が得意なライダーという評価ではありませんでした。ライダー一流、マシンは二流(三流?)、というのがハーレーのお決まりで、「H-Dは予算の使い方を間違っている。ライダーのギャラにではなく、マシン開発に金をかけるべきだ」とあからさまに非難されるようになります。

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#4 Scott Russell

 ラッセルのチームメイトは、2年目のピコッテ。この年、ハーレー2回目の表彰台(第4戦シアーズポイント・3位)を果たしたのは、エース・ラッセルではなくピコッテでした。

2000年

 ライダーは前年と同じ、2年目のスコットラッセルと3年目のパスカル・ピコッテ。結局、ラッセルをしても2シーズンの間にVR1000でレースをリードするような走りは一度もできませんでした。

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#4 Scott Russell

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#21 Pascal Picotte

 この年、マシンにメジャーな改良が入り、Fフォークはオーリンズからショーワとなり、マフラーは左右2本出しが採用されました。(改良の効果は、焼け石に水といったところでありました)

2001年

 2001年がワークス参戦最後の年となります。

 最初期からチームに関与していたスティーブ・シャイベは、チームマネージャーの座を辞し、ジョン・ベイカーがその座に納まります。しかし、エンジニアでもなく、チームマネージャーの経験もないベーカーは、会社の意向をのまま現場に伝えるだけのカンパニーマン、とチーム内での評価は芳しくありませんでした。(おそらくベーカーは、本年でワークス活動は終了という最後通牒をチーム員に通告するためだけに任ぜられた損な役回りであったのでしょう)

 ライダーは4年目のパスカル・ピコッテと新規加入のマイク・スミス。なお、スミスは、1998年の事故で負傷したトム・ウイルソンに代わり最後の3戦でVR1000を走らせ、最終戦ラスベガスで8位を得、さらに翌99年にはスコット・ラッセルに代わりスポット参戦した第2戦フェニックスで10位を得たという経験を持っています。

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 初戦デイトナでは、マイク・スミスは手堅く7位でフィニッシュ。これはVR1000のデイトナにおける最高位となりました。ピコッテは6位を走っていたものの、途中メカニカルトラブルで順位を落とし、32位でレースを終えています。

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#911 Mike Smith

 この年、プライベートVR1000で初参戦したカナダ人ライダー、ジョーダン・ソーケは総合成績でワークスライダー2名の間に割り込むという健闘を果たしています。

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#101 Jordan Szoke

 VR1000のワークス活動期間は決して短くなく、準備に5年、レース活動に8年、計13年にも及びました。莫大な資金を費やしたにもかかわらず、得られたものはわずかというより、むしろハーレーの技術力程度ではプロフェッショナル・レベルのロードレースは荷が重すぎる、というネガティブなイメージすら残した結果と相成りました。チームは「H-Dは、2度とファクトリーチームでスーパーバイクレースに出ることはないだろう」と、なんとも寂しいコメントを残し、レース・シーンから去って行きました。

公道バージョン

 VR1000の公道バージョンはスーパーバイクのホモロゲーションに必要な最低限の50台のみ製造されています。(ここで、あれ、スーパーバイクのホモロゲ獲得って、たった50台で良いの?と思われた方は多いのではないかと存じます。この「50台」という数字はAMAがハーレーのために揮ったお手盛り采配かもしれません)価格は$49,490で、内容からしたらバーゲンプライスと評価されています。なお、ロードバージョンは本国USの環境規制をクリアさせることはできなかったため、レギュレーションには生産国で公道登録しなければならないという事項がないことを良いことに、ただ単に規制の緩い国としてポーランドが選ばれ、認可手続きが済まされています。ポーランド以外で公道登録できたVR1000はあったのでしょうか?(当時のHDJ社長は本社からVR1000の割り当てを受け、購入したと聞きますが、登録したかどうかは不明)

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 巷では、VR1000の技術的遺産は2001年デビューのV-Rodに継承された、と語られており、公式の宣伝文句としても使用されていますが、はたして両者はどこまで似ているのでしょうか。

 VR1000のエンジンはボアxストローク:98mm x 66 mmの995cc。(ボア・ストローク比:0.67)

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 V-Rodのエンジンは、伝統のバンク角45度を捨て、VR1000と同じ60度を採用しています。ボアxストローク:100mm x 72mmの1131cc。ボア・ストローク比は0.72で、十分スポーツエンジンの領域にあるといえましょう。

evolution_eng

 V-Rodエンジンの設計にはポルシェの手が(かなり)入っているとのことで・・・まあ、VR1000イメージ(たいして良いものとは思えないのですが)を利用するために、外観を似させた程度の関係と思われます。VR1000の開発&レース活動で費やした莫大な予算を、株主に納得してもらうために、こういう形あるものに落としこむ必要があったのかしれません。

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