2017/05/07 富士山オールドカーフェスタ

E藤氏が行って参りました。

ただただ値段の高い車ばかりに人が群がる日本のこの手のミーティングで、かなり珍しい・・・だけでなく歴史的にも価値のある車が展示されていました。

1923 TATRA 11

チェコの自動車メーカー、タトラは、1850(嘉永3)年、オーストリア・ハンガリー帝国領時代のボヘミアにて、馬車メーカーのネッセルドルフ車両製造会社として創業しています。日本では意外に知られていませんが、チェコはボヘミア時代から第2次大戦終了まで、ヨーロッパの中でも先進的な工業地域でありました。

ハンス・レドヴィンカ

そのタトラを語るにあたり・・・否、自動車史を語るにあたり、必ず出てくる人物が、ハンス・レドヴィンカ(Hans Ledwinka / 1878(明治11)年 – 1967(昭和42)年)です。

1897(明治30)年、ネッセルドルフ車両製造会社に入社したルドヴィンカは、当時きわめて先進的あった半球形型燃焼室を持つOHCエンジンの実用化に成功するなど優れた業績を残していましたが、会社の経営陣が交代し、自動車部門よりも鉄道部門を重視する方針が決定されると、1916(大正5)年、オーストリアのシュタイア社へ移っています。

タトラ 11

シュタイアでのレドヴィンカは、まもなく小型乗用自動車の需要が起きることを見越し、その設計構想を膨らませておりましたが、経営陣の反対を受け実現できない状況にありました。そのような中、ネッセルドルフ車両製造会社からお声がかかり、1921(大正10)年、自身の構想を実現するために古巣への復帰を果たします。

レドヴィンカの小型乗用自動車構想は、タトラ11として形となりました。(タトラのブランド名はT11から使用されています)

T11の設計は先進的かつ、きわめてユニークなものでありました。広告でも一番の売りとして、ベア・フレームをフィーチャーしています。

フレームは、大径スチールパイプを使ったバックボーン方式で、プロペラシャフトはフレームの中に通されています。空冷の水平対向OHV2気筒エンジンはフレームの先端に剛体接合され、強度部材として利用されています。

リジッドアクスルのフロントサスは、横置きリーフスプリングを介し、エンジン下に直接固定されていることは特徴的です。リアサスはシュタイア時代に会得した、ジョイントレス・スイングアクスルの独立懸架方式でありました。

その簡潔な構造から、700kgという軽量に仕上がったT11は、1100cc・12HPという非力ながら最高速度は70km/h以上に達しており、1925(大正14)年にはタルガ・フローリオの1100ccクラスで優勝を果たしています。

ナチス支配下へ

やがて欧州でアドルフ・ヒトラーが台頭してくると、中欧・東欧諸国はナチス・ドイツの支配下に置かれていきます。チェコも1938(昭和13)年にドイツに併合され、タトラはドイツの軍需車両生産体制に組み込まれていきます。

3リッター空冷V型8気筒をリアに積む新型車T77を、ヒトラーに説明するレドヴィンカ。タトラはヒトラー好みのクルマでありました。

ヒトラーはタトラのトラックにも軍事的な興味を示しました。

工場視察に来たドイツ国防軍高官を案内するレドヴィンカ。

フォルクスワーゲンに影響を与える

フェルディナント・ポルシェはチェコ生まれで、ハンス・レドヴィンカと世代も同じ(レドヴィンカが3歳若い)だったため、両者には交流がありました。

F. Porsche / H. Ledwinka.

ポルシェは、ヒトラー肝入りの「国民車」を設計するにあたり、レドヴィンカの影響を、控え目に言って、”強く”受けていたと言えましょう。そのプロトタイプは、独特の流線形のボディデザイン、プラットフォーム式シャーシにエンジンをリアに積むレイアウト、水平対向・空冷4気筒のエンジン形式などなど・・・タトラ97にきわめてよく似ています。実際、タトラが持つ特許を複数使用したとして、特許料の支払いを求められていますが、チェコがドイツの支配下に置かれると、その要求は凍結されてしまいます。

1937 KDFwagen prototype / Tatra 97

第二次世界大戦後、改めてタトラはフォルクスワーゲンに特許使用料を求めますが、1965年に100万ドイツマルクがフォルクスワーゲンからタトラに支払われることで決着しています。

鉄のカーテンの向こう側に

かように独自の技術世界を持ったタトラも、戦後、チェコが東側体制の一員となったため、急速にその輝きが失われてしまうのですが、それはまた別の話となりましょう。(レドヴィンカは新たに成立した共産主義政権下において、対独協力者として懲役6年の刑に処されています)

URAL

ウラルの歴史は、第二次大戦中、ドイツ機甲師団が使用するオートバイの機動性に驚嘆したソ連政府がBMWのデッドコピーを自国のIMZ社に命じたことから始まりました。そのコピー行為は、ドイツのソ連に対する戦時賠償の一部として戦後も正当化され、現在に至る模様です。

ALPINE

A110

1961年から1977年まで17年もの長期間にわたって生産されたA110は、その軽量さとリアエンジンによる強烈なトランクションを武器に、初期の世界ラリー選手権を席巻しました。また、プロトタイプでルマンに挑戦するなどもしていたアルピーヌは、昔も今もモータースポーツ・イメージの強い会社ですが、意外にもアルピーヌを設立した元レーシングドライバー、ジャン・レデレ(Jean Rédélé)は事業拡大欲も小さくないようで、自社の名機A110を世界各国でライセンス生産させていました。

A110をライセンス生産した国は、ブラジル、ブルガリア、メキシコ、スペインの4国にも渡ります。(実のところ、ルノーをライセンス生産している国でアルピーヌも造られた、という状況です)

Wills Interlagos

ブラジルではウイリス-オーバーランド社が、1962年から1966年までに、インテルラゴス(Interlagos)名義で、A110の前身であるA108とA110を合わせて822台生産しています。この会社はルノー車のライセンス生産を行っておらず、純粋に自社ラインアップにスポーツカーが欲しかったために導入したとのことです。

Dinalpin

同じ南米のメキシコでは、ルノー車をライセンス生産していた ディーゼル・ナシオナル 社(Diesel Nacional SA / DINA) が ディナルフィン(Dinalpin)として、1965年から1974年の間に、508台のベルリネッタと67台のカブリオレを生産しています。

Bulgaralpine

ルノーのライセンス車をブルガールノー(Bulgarrenault)として生産していたブルガリアでは、1966年からブルガラルピーヌ(Bulgaralpine)も生産されることが決定します。年産300台程度を目標としていたものの生産は軌道に乗ることは無く、1969年の生産終了までの4年間にわずか60台(100台あるいは120台とする説もあり)が造られたにすぎませんでした。

FASA-Renault Alpine

スペインのルノーの子会社、FASAルノーでは、1967年から本国よりも1年長い1978年までA110を生産していました。

ISUZU

DAIHATSU

HINO

MAZDA

COSMO

MITSUBISHI

JEEP

デボネア

COLT LANCER

GALLANT

NISSAN

FAIRLADY

BLUEBIRD

TOYOTA

CORONA

PABULICA

CROWN

CAROLLA

ABARTH 750 ZAGATO

ALFA ROMEO

Junior ZAGATO

GIULIA TI

LAMBORGHINI COUNTACH Aniversary

このカラーリングはきっと、童夢・零のパロディなんでしょうね・・・

BMW 2002 TURBO

FMR TIGER 500

UK FORD

ANGLIA

ESCORT RS

FORD MUSTANG CONVERTIBLE

FORD MUSTANG MACH1

CHEVROLET BEL AIR

PONTIAC FIREBIRD TRANS AM

CADILAC

VOLVO P1800 ES

P1800のエステートワゴン仕様

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です