日産ヘリテイジコレクション 競技車(1/2)

若きエンスー、E藤氏が「日産ヘリテイジ・コレクション」に行かれました。恒例のご紹介です。(解説は公式HPより引用しております)

プロトタイプ

1967年 ニッサンR380 (A-Ⅱ型)


プロトタイプレーシングカーとして誕生したR380は、レースでの華々しい活躍だけでなく、当時の国際スピード記録にもチャレンジしています。初回の挑戦は、日本グランプリが中止になった1965年(昭和40年)10月。杉田幸郎のドライブするR380-AIは4種目で国際記録を上回るタイムを記録しましたが、走行したJARI(茨城県谷田部町)のコースがFIA未公認だったため、国内記録となりました。 R380-AIIでチャレンジした2回目は、日本グランプリで勝利を上げた翌年の1967年(昭和42年)10月8日。このクルマはそのR380-AIIの実車 で、谷田部のコース(FIA 公認後)を横山 達の運転で疾走。50㎞ /50マイル/100㎞ /100マイル/200㎞ /200マイル/1時間の合計7種の国際記録を樹立。速度記録挑戦車は、最高速度を向上させるためレース仕様のカウルと細部が異なり、全長が80㎜長い。

1968年 ニッサンR381 1968年日本グランプリ優勝車

1968年(昭和43年)の日本グランプリで優勝したニッサンR381は、ユニークなエアロスタビライザーというウイングを装着しています。これは、コーナリング中にイン側のグリップを強化するため、走行中にリヤサスペンションと連動し、左右が独立して角度変化し、ブレーキング時は左右連動して立ち上がる、従来にない発想で作られています。エアロスタビライザーと命名されたこの特徴的なウイングを持つR381は、「怪鳥」という異名を取りました。エンジンは、日本GPに合わせて日産が大幅に手を入れたシボレー製5.5L V8エンジンを搭載。レースには、支援に回った3台のR380(No.21黒沢元治選手、No.22横山達選手、No.23大石秀夫選手)と共に本命となる3台のR381(No.18高橋国光選手、No.19砂子義一選手)が投入されました。このクルマは、北野元選手がドライブし、見事優勝した20号車です。

1969年 ニッサン R382 1969年 日本グランプリ優勝車

1960年代後半、国民的盛り上がりを見せていたのが「日本グランプリ」のトップカテゴリー「グランプリレース」です。その最終年となった1969(昭和44)年のグランプリに向けて開発された、当時の「グループ7」規定に準拠したプロトタイプレーシングカーがニッサンR382です。エンジンは新開発のV型12気筒DOHC で、5,954㏄という大排気量から、600馬力以上の圧倒的パワーを発生するGRX-II型を搭載しました。決勝レースでは、トヨタ7やポルシェ917といったライバルたちを退けて、21号車の黒澤元治選手がトップ、20号車の北野元選手のR382も2位に入り1-2フィニッシュ。日産にとっては1968年に次ぐグランプリ2連覇となりました。日本グランプリは、自動車をめぐる社会問題の深刻化に伴い翌1970(昭和45)年以降は中止されたため、結果的にこのレースが最後の開催となりました。このクルマは、日本グランプリに優勝した実車・21号車です。

1970年 ニッサンR383

1968年(昭和43年)にR381、その翌年にR382で日本グランプリを制覇した日産自動車は、1970年(昭和45年)の同レース3連覇を目指し、新たなレーシングカー「R383」の開発を進めていました。エンジンはR382と同型式のV型12気筒DOHC・5954cc、GRX-II型ながら、最高出力は100馬力アップの700馬力以上(北米のCANAMシリーズ出場を想定したターボチャージャー付き仕様は900馬力)という計画でしたが、1970年の日本グランプリは社会情勢の変化などの理由で中止。それ以降も打ち切りとなり、戦う場を失ったため、R383はレースファンの間では「幻のマシン」と呼ばれます。 このクルマは、2006年に大規模な復元作業によってほかのR38シリーズと同様に動態保存への転換を図り、同年の日産モータースポーツファン感謝イベント「NISMO FESTIVAL」で、じつに36年目にして初めて実際に走る姿を披露しました。

1985年 ニッサン GTP ZX-Turbo

1985年(昭和60年)から、米国のIMSA(インターナショナル・モータースポーツ・アソシエーション) GT 選手権のGTP シリーズに参戦していたマシンです。マシンの開発とレース参戦は米国のエレクトラモーティブ・エンジニアリングが担当。3000ccのV型6気筒SOHCツインターボエンジンを搭載したプロトタイプのレーシングカーで、1988年(昭和63年)にはドライバーズタイトルを獲得(ジェフ・ブラバム)。さらに1989年(平成元年)~1991年(平成3年)の3年連続でドライバーとメーカーの両シリーズタイトルの栄冠に輝きました。

1986年 ニッサンR85V

1986(昭和61)年、日産がワークスとして初めてフランスのル・マン24時間レースに参戦した、当時主流のグループC 規定によるプロトタイプレーシングカーです。ニッサンR86Vニチラ(星野一義/松本恵二/鈴木亜久里組)と、ニッサンR85Vアマダ(長谷見昌弘/和田孝夫/Jウィーバー組)の2台体制で過酷な24時間耐久レースに挑みました。3000cc のV型6気筒OHCツインターボエンジンが生み出す680馬力以上のハイパワーを活かし、予選でニッサンR86V ニチラが日本勢トップの24位となるものの決勝ではリタイア。いっぽう、ニッサンR85V アマダは総合16位で完走を果たし、話題となりました。このクルマは完走を果たしたR85Vアマダです。

1988年 ニッサンR88C

1988年(昭和63年)のル・マン24時間レースに照準を合わせて新設計した、3000cc・V型8気筒DOHCターボのVRH30エンジンを搭載したプロトタイプのレーシングカーです。R88C-YHPは、 1988年~1989年(平成元年)の第2戦まで長谷見昌弘選手が第1ドライバーとして全日本スポーツプロトタイプカー選手権(JSPC)を戦い、88年には32番、89年には24番のカーナンバーでした。1988年は第4戦・富士と、第5戦・鈴鹿でともに3位に入賞。1989年の第2戦・富士でも3位に入賞を果たしています。また、この年に始まった世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)の第1戦・鈴鹿では、星野一義/鈴木利男組のR88Cが4位に入りました。このクルマは、1989年の第2戦まで使用された24番、長谷見昌弘/アンデルス・オロフソン組のR88Cです。

1989年 ニッサンR89C

1989年(平成元年)の日産チームのグループCカーは、英国マーチ製のシャシーからローラ製へと変わり、エンジンも3500ccのVRH35型(V型8気筒DOHC)を採用し、排気量のアップとともに、800馬力を超える最高出力を備えたモンスターマシンへと進化しました。エクステリアは、日産自動車がデザインした美しいカラーリングとなり、また、本格導入されたテレメトリーシステム(遠隔測定装置)もR89Cの大きな特徴です。R89Cは、ル・マン24時間レース後の、第3戦・富士500マイルレースで日本デビュー、第5戦・富士1000kmレースでは24号車YHP(長谷見昌弘/A.オロフソン組)が、8位でチェッカーフラッグを受けそのポテンシャルの片鱗を見せました。このクルマは、23号車カルソニック(星野一義/鈴木利男組)車です。

1990年 ニッサンR90CP #24YHP ’90年全日本スポーツプロトタイプ選手権(JSPC)獲得車両

1983年(昭和58年)に始まったグループCカー(プロトタイプカー)によるレースで(全日本耐久選手権。のちに全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)という名称に変更され、日産チームは同シリーズで1990年(平成2年)から3連覇の偉業を成し遂げることになりますが、その初代チャンピオンマシンがこのニッサンR90CPです(長谷見昌弘/アンデルス・オロフソン組)。3500cc・V型8気筒DOHCターボであるVRH35型エンジンの改良型であるVRH35Zを搭載しています。基本シャシーは英国ローラ社製を採用していますが、パーツの約70%が日産自動車とNISMO(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)製で仕上げられていました。

1991年 ニッサンR91CP #23 ’92年デイトナ24時間レース総合優勝車両

日産のグループCレーシングカーの歴史は、1983年(昭和58年)から始まります。英国のマーチ社やローラ社といった外国製のシャシーに日産のエンジンを搭載し、WEC(世界耐久選手権)や、国内の耐久シリーズ(JSPC)に参戦していましたが、R90型からは自社製となったマシンでの参戦となりました。このクルマは新設計のカーボンモノコックを採用したR91CP。1992年(平成4年)のデイトナ24時間レースで長谷見昌弘/星野一義/鈴木利男組が日本人・日本車として初の総合優勝を飾った記念すべきマシンです。エンジンは3500ccのVRH35Z(V型8気筒DOHCツインターボ)で、最高出力は実に800馬力に達しました。このハイパワーを受け止める為に更なるチューニングをされたシャシーの採用など、優れたトータルバランスが、デイトナ24時間レース制覇という快挙を成し遂げました。

1997年 ニッサンR390 GT1 #23

1990(平成2)年以降、日産はル・マン24時間レースへの参戦を休止していましたが、1995(平成7)年と翌1996年は、NISMO(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)チームがNISMO GT-R LM で参戦を再開。1997(平成9)年以降は、再び日産ワークスで参戦するため、GT1規定のニューマシン「R390GT1」を開発します。かつての「R380シリーズ」にちなんだネーミングが与えられ、650馬力以上の3.5L V 型8気筒DOHC ツインターボエンジンを搭載した本格的マシンでした。このクルマは、1997(平成9)年参戦の3台のうち、星野一義/E・コマス/ 影山正彦組の23号車(総合12位・クラス5位)です。

1999年 ニッサン R391

1999(平成11)年のル・マン24時間レース必勝を期して開発されたニッサンR391は、GT1規定からオープン2シーターのLMP規定に変更し、実戦には2台を投入。決勝前日の予選で23号車がクラッシュし決勝レースには出走できず、決勝のグリッドには予選12位の22号車のみが並びました。その22号車も、決勝スタートから7時間半後の110周でリタイアを余儀なくされます。その後、この悔しさをバネに、同年11月に富士スピードウェイで行われた耐久レース「ル・マン富士1000㎞」に挑戦したE・コマス選手/ 本山哲選手/ 影山正美選手組の23号車がチームとともに意地を見せ、優勝を果たしました。これはその優勝マシンです。

ツーリングカー

1963年 フェアレディ1500

1961(昭和36)年の第8回東京モーターショーで発表、翌年に発売されたのがダットサンフェアレディ1500(SP310型)です。型式名のとおりダットサン310型(初代ブルーバード)のシャシーへセドリック30型のエンジンを搭載し、それまでにない低重心でスポーティなスタイリングで話題をさらいました。エンジンは1.5Lで最高出力は71馬力、最大トルクは11.5㎏ -m を発生。輸出仕様はさらにツインキャブレターを採用し80馬力にまでパワーアップしていました。このクルマは1963年、「第1回日本GPレース」のB-IIカテゴリーで優勝したマシンそのもので、ドライバーは後の SCCN(日産スポーツカークラブ)の会長・田原源一郎が務めました。

1964年 グロリア スーパー6

1959(昭和34)年にデビューした初代グロリア(BLSI型)は、スカイラインとボディを共用していました。グロリアは1962年9月にフルモデルチェンジを受け、2代目(S40型)に移行します。そして、翌1963年(昭和38年)には、2000ccクラスとしては、国産初の6気筒SOHCエンジンを搭載したスーパー6を追加。ネーミングどおりの直列6気筒「G7型」1988ccエンジンは、国産としては初の100馬力オーバーとなる105馬力の出力を誇りました。モータースポーツでも活躍し、1964年(昭和39年)に行われた第2回日本GP(T-VIレース)で1位(39号車:大石秀夫)、2位(38号車:杉田幸朗)とワンツーフィニッシュを決めました。このクルマは優勝した39号車の実車です。

1964年 スカイライン GT

「スカイラインGT(S54A-1型)」は、1964(昭和39)年5月3日の第2回日本グランプリ「GT-IIレース」での必勝を期してプリンス自工が製作したスペシャルマシン。スカイライン1500(S50型)のホイールベースを200㎜延長してグロリア用6気筒G7型エンジンを搭載するという斬新な手法で100台を製作し、レース直前の5月1日に発売して出場資格を得ました。実戦用車両にはスポーツオプションのウェーバー3連キャブ、5速クロスミッション、ノンスリップデフ等を装着していました。レースは急遽出場を決めたポルシェ904が勝利したものの、スカイラインGT は2~6位を独占してその高性能を強く印象付けました。レース後、このモデルを求める声に応え、出場車と同じウェーバー3連キャブの125馬力仕様の「2000GT(S54B-2型)」を1965年2月にカタログモデルとして正式に発売し、これ以降、スカイラインのイメージは「2000GT」が牽引していくことになります。このクルマは、当時の同型車両をベースに、2位に入った砂子義一選手の39号車と同仕様にしたもので、2012年、鈴鹿サーキット50周年に合わせて「日産名車再生クラブ」がフルレストアしています。

1969年 スカイライン2000GT-R 1969JAFグランプリ優勝車仕様

1969年(昭和44年)、スカイラインにレース専用ともいえる、国内初のDOHC24バルブエンジンを搭載した、スカイライン2000GT-R(PGC10型)が誕生しました。GT-Rは早速、1969年5月、富士スピードウェイで行われた、JAFグランプリレースにデビュー。デビュー戦は、参加規定によりクラブマンドライバーが主体となったこのレースにはPMC・Sから多数のGT-Rが出場。篠原孝道選手のドライブにより、判定勝ちながらも苦しい勝利を飾り、新たなスカイライン伝説(49連勝を含む通算52勝)の第一歩が記されました。 このクルマは、4ドアセダンのGT-R をベースに作られた篠原選手のドライブにより初勝利を挙げた39号車仕様。

1972年 サニー1200クーペGX-5

2代目サニー(B110型系)は、1200ccシリーズがモータースポーツでも活躍しました。1972年(昭和47年)の8月に追加設定された2ドアクーペ 1200GX-5(ファイブ)がベース車となりました。グレード名の最後にある「5」とは、直結5速フロアシフトのマニュアルトランスミッションを搭載したスポーティモデルであることを意味しています。レースでは、130馬力にチューンナップしたA12型エンジンを搭載。オーバーフェンダー内にワイドタイヤを装着し、富士スピードウェイを舞台とした「TS レース」カテゴリーに参戦。1971~74年、77年、79年、80年、82年のシリーズチャンピオンに輝きました。このクルマは1972年の東京モーターショーに参考出品された実車です。

1973年 サニー エクセレントクーペ1400GX

1971(昭和46)年4月、1.2Lエンジン主体だった2代目B110型サニーに、1.4LのSOHC エンジンを搭載した上級シリーズ「エクセレント」の2ドアクーペと4ドアセダンが設定されました。そのレース仕様は、排気量を1598㏄に拡大し、1973年シーズンからのシリンダーヘッド変更に関する新規定に沿って4バルブDOHC 化を施し、ECGI(電子制御燃料噴射装置)などで200馬力に強化、型式名をLZ14型としたレース専用のエンジンが搭載されました。このクルマは、LZ14型エンジンを搭載したサニーエクセレントクーペの初戦となった1973年日本グランプリ(TS-a クラス)で優勝を果たした北野元選手のマシン。このレースでは2位(都平健二選手)と3位(鈴木誠一選手)もエクセレントクーペが入賞して表彰台を独占、圧倒的な勝利となりました。

1973年 フェアレディ 240ZG

グローバルな大ヒットスポーツカーとなった初代フェアレディZ(S30型)は、国内の2Lエンジンに対して、輸出向けは2.4Lエンジンで発売されました。この輸出仕様が、発売2年後の1971年になって日本市場にも新規投入された際に追加になったのが、独特のノーズピース「エアロダイナ・ノーズ」をもつ240ZGです。このクルマはその240ZGのレース仕様テストカーで、排気量2,870㏄クロスフローのLY28型エンジンを搭載しています。

1982年 マーチ スーパーシルエット

初代マーチは、歌手で俳優の近藤真彦さんをイメージキャラクターに迎え、「マッチのマーチ」や「スーパーアイドル」といったキャッチコピーで、若い女性を中心に高い関心を集め、一躍人気モデルの仲間入りを果たしました。これは、その近藤真彦さんのために製作されたスペシャルカーで、当時スカイライン・ブルーバード・シルビアの迫力ある走りで人気の高かった「スーパーシルエット(Gr. 5)」レース仕様を模しています。エンジンはチューンナップされたE15型(1500cc、最高出力160馬力)を搭載。コンパクトカーとは思えない、迫力のボディは多くのファンの目を釘づけにするほどでした。

1983年 シルビア スーパーシルエット

6代目ブルーバード(910型)は、そのクリーンなイメージのスタイルや高い走行性能を武器に、小型車のベストセラーとして高い評価を獲得しました。国内外のモータースポーツでも活躍し、スカイライン・シルビアとともに、市販車の面影を残した「グループ5」規定のスーパーシルエットレースへも参戦。最高出力570馬力のターボ付きLZ20B 型エンジンの大パワーは、当時のF1さえ超えるものでした。1983(昭和58)年、白とオレンジに塗られたブルーバードスーパーシルエットは、柳田春人のドライブで全10戦中4勝をマークし、シリーズチャンピオンを獲得しました。中でも富士スピードウェイでのレースでは6戦中3勝と強さを見せました。このクルマは、1984年(昭和 59年)のシーズンを戦った白をベースとしたカラーで保存されています。

1984年 ブルーバード スーパーシルエット

6代目ブルーバード(910型)は、そのクリーンなイメージのスタイルや高い走行性能を武器に、小型車のベストセラーとして高い評価を獲得しました。国内外のモータースポーツでも活躍し、スカイライン・シルビアとともに、市販車の面影を残した「グループ5」規定のスーパーシルエットレースへも参戦。最高出力570馬力のターボ付きLZ20B 型エンジンの大パワーは、当時のF1さえ超えるものでした。1983(昭和58)年、白とオレンジに塗られたブルーバードスーパーシルエットは、柳田春人のドライブで全10戦中4勝をマークし、シリーズチャンピオンを獲得しました。中でも富士スピードウェイでのレースでは6戦中3勝と強さを見せました。このクルマは、1984年(昭和 59年)のシーズンを戦った白をベースとしたカラーで保存されています。

1988年 スカイラインGTS-R 1988欧州ツーリングカー選手権参戦車

1985年(昭和60年)8月に発売された7代目スカイラインR31型は、4ドアセダンと4ドアハードトップのラインナップでスタートしました。翌1986年(昭和61年)には2ドアクーペが追加され、さらに翌1987年(昭和62年)8月 には、グループAレース用のベース車「GTS-R」が800台限定で発売。このモデルには、大口径ターボチャージャー(ギャレット製)やステンレスエキゾーストマニホールドの採用などで、エンジンの最高出力を「GTS」から20馬力アップの210馬力にまで高めていました。このクルマは、ニスモ(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)がヨーロッパにおける活動拠点として英国に設立した「NME」によって製作されたレース車両です。1988年(昭和63年)の欧州ツーリングカー選手権(ETC)レースに、アラン・グライス/ウィン・パーシー組で参戦。また世界3大耐久レースの1つであるスパ・フランコルシャン24時間レースでは、全日本スポーツプロトタイプ選手権で日産チームの一員として活躍したアンデルス・オロフソン選手を加えたトリオで、総合6位入賞を果たしています。

1990年 スカイライン GT-R #12カルソニック

1989年(平成元年)8月、8代目スカイラインR32型で劇的な復活を遂げたGT-Rは、翌1990年(平成2年)3月の全日本選手権開幕戦でレースデビューを果たしました。その後、グループAによる全日本選手権が終了する1993年(平成5年)までの4年間、4シーズン全29戦をすべて優勝するという前人未踏の記録を残しました。このクルマは、ゼッケン「12」を付けて、1990年のチャンピオンに輝くなど、大活躍したカルソニック・スカイラインチーム(星野一義/鈴木利男組)のレース車です。2600cc直列6気筒DOHCターボエンジンは、550馬力というハイパフォーマンスを発揮するまで、とことん鍛え上げられていました。カルソニックチームは、1993年にも星野一義/景山正彦のコンビでチャンピオンを獲得しました。

1993年 スカイライン クラブ ルマン

1990年(平成2年)のデビューレースから、グループAによる全日本選手権が終了する1993年(平成5年)までの4シーズンを、全29連勝の記録を打ち立てたR32型GT-Rは、その後もJGTC等の他のカテゴリーで活躍を続けました。このクルマは、1993年(平成5年)鈴木利男/飯田章のドライブで、No55共石スカイラインとしてグループAを戦い、1994年(平成6年)JGTC用の改修を受け、鈴木利男のドライブでNo2ゼクセルスカイラインとしてJGTCを戦った後、1995年(平成7年)、日産・ニスモのサポーターズクラブ、「クラブ ル・マン」(後のクラブ ニスモ)の発足に合わせ、そのデモカーと生まれ変わりました。クラブ ル・マン主催のドライビングレッスンでは、同乗走行用のレッスンカーとしても活躍しました。

1993年 スカイライン STPタイサンGT-R

1993年の全日本ツーリングカー選手権は、長谷見昌弘/ 福山英朗組のユニシアジェックススカイライン、 星野一義/ 影山正彦組のカルソニックスカイラインなど、R32型スカイラインGT-R 同士がデッドヒートを繰り広げました。 R32型GT-R の国内グループAレース29連勝という記録は、もはやR32でなければ勝てず、有力チームがこぞってR32どうしでしのぎを削った結果ともいえます。このスカイラインSTPタイサンGT-Rは、日本レース界を牽引してきた高橋国光選手と、人気者で実力者の「ドリキン」こと 土屋圭市選手が駆ったR32GT-Rです。

1996年 ニスモ GT-R LM ’96年ル・マン参戦車

1995年(平成7年)、スカイラインGT-R(BCNR33)を使った日産とニッサン・モータースポーツ・インターナショナルによる「ルマン・チャレンジ3年計画」が始まりました。搭載のRB26DETTエンジン(2600cc直列6気筒DOHCツインターボ)は2795ccへと排気量がアップされ、600馬力以上のパワーを誇りました。この23号車は、1996年(平成8年)に参戦した長谷見/星野/鈴木組のNISMO GT-R LMで、総合15位・クラス5位の戦績を残しています。ちなみに、このプロジェクトはNISMOを軸に組織された国内の熱心な日産ファンクラブ「クラブル・マン」の支援で実現しました。

1998年 スカイラインGT-R ペンズオイル・ニスモ (’98年JGTCシリーズ優勝車)

9代目のスカイラインにあたるR33型は、1993年(平成5年)8月に発売されました。待ち望まれたGT-R は、2年後の1995年1月に発売され、4月のJGTC 開幕戦(鈴鹿サーキット)で実戦投入されました。このクルマは、1998年(平成10年)の同選手権において、ニスモ(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)のワークスマシンとして参戦。エンジン排気量を2,600ccから2,708ccに拡大し、最高出力は500馬力以上、前年型よりさらに低く、しかもエンジンルームの後方に下げられるなどの改良が施されていました。 エリック・コマス/影山正美選手のドライブにより、1998年のシリーズ制覇を成し遂げたチャンピオンマシンです。

1999年 ペンズオイルニスモGT-R ’99年JGTCシリーズ優勝車

レースに勝つために生まれたスカイラインGT-Rは、1999年(平成11年)1月に誕生した5代目(R34型)においても、そのポテンシャルの高さをいかんなく発揮しました。このクルマは、そのデビューイヤーに開催された全日本GT選手権(JGTC)のシリーズ全6戦において、熟成されたレース仕様のRB26DETTエンジン(最高出力500馬力)や、シャシー性能などを武器に、常に安定したハイポテンシャルを発揮。シリーズチャンピオンの座を獲得し、前年に出走していた4代目(R33型)に続き、2年連続の王座を獲得しました。なお、市販仕様のR34はFR(フロントエンジン・リヤドライブ)を基本に、必要に応じて駆動力を前輪にも配分するトルクスプリット型の4WDシステムを採用していましたが、レース仕様ではレース規則を踏まえてFR方式としていました。

1999年 プリメーラGT 1999年英国ツーリングカー選手権(BTCCシリーズ)優勝車

1992年(平成4年)、ヨーロッパでは2000ccのエンジンを搭載した4ドアセダンによるレースが各国でブームとなりました。イギリスではBTCC(英国ツーリングカー選手権)と銘打ったレースが大人気となり、当時イギリスでも生産されていた初代プリメーラが参戦。続く2代目モデル(P11型)も引き続きサーキットを疾走しました。1999年のBTCCは、ボルボ・S40、ルノー・ラグーナ、ボグゾール・ベクトラ、フォード・モンデオ、ホンダ・アコード、などがメーカーの威信を掛けて熾烈な戦いを繰り広げました。このマシンは、その戦いで全26戦中13勝をマーク、製造メーカー部門、ドライバー部門、チーム部門など4冠を征したチャンピオンマシンです。エンジンは300馬力以上にパワーアップされたSR20DE型を搭載しています。

2002年 スカイラインR34GT-Rエンドレスアドバン02,03S耐優勝車

2002年(平成14年)のスーパー耐久シリーズ、換算排気量3501cc以上のクラス1に参戦した「エンドレスアドバン」チームのR34GT-Rです。木下みつひろ/青木孝行組は、4月に行われた第2戦 「Hi-landスーパー耐久レース」(仙台)で早くも 優勝を飾り、5月の第3戦「スーパー耐久鈴鹿300マイル」、6月の第4戦 「もてぎスーパー耐久500」(ツインリンクもてぎ)、10月の第7戦「SUGOスーパー耐久」(菅生)で優勝を飾り、圧倒的な強さでシリーズチャンピオンに輝きました。スーパー耐久シリーズは、改造の幅が少ない市販車に近いマシンだが、「N1」規定では認められないオイルクーラーなどの追加が認められていました。

2006年 SUPER GT 2006 #22 MOTUL AUTECH Z

2006年(平成18年)、SUPER GTGT500クラスに、デビュー3年目となったフェアレディZ(Z33型)5台がエントリーしました。前年1勝に終わったこともあり、この年のZにはさらなるチューンが施され、エンジンの内部には、スペックに表れないような細かな改良が多数施されました。このモチュールオーテックZはNISMOチームのワークス車2台のうちの1台で、開幕当初はミハエル・クルム/山本左近のペアでしたが、第4戦以降は山本に代わってリチャード・ライアンがドライブ。第4戦マレーシア、第6戦鈴鹿でともに2位表彰台を獲得し、ドライバーズランキングでミハエル・クルムが日産勢でトップの4位を獲得し、強いNISMO、強いフェアレディZを再び印象づけることに成功しました。

2011年 FIA GT1 #23 JRM Racing NISSAN GT-R

ラリー

1958年 ダットサン 1000セダン 桜号

1958年(昭和33年)に行われたモービルガス・トライアル(通称:豪州ラリー)に、富士号とともに出場した、もう1台の210型が桜号です。こちらも(大家義胤選手/ 三縄米吉選手/A. ギボンス選手組)国際ラリーに初挑戦ながらAクラス4位に入賞しました。富士号とともに、折りしも北米への輸出開始を控えていたダットサンブランドの名を世界へ発信するきっかけをつくりました。ちなみに、2台が出走した豪州ラリーは、広大なオーストラリア大陸を右まわりに一周するもので、設定されたコース長1万6000km は、当時の世界最長でした。しかし、あまりにも過酷な状況での耐久競技であることから、この年が最後の開催となりました。

1966年 ブルーバード 1300SS 第14回東アフリカサファリラリー クラス優勝車

1963(昭和38)年発売の2代目・410型ブルーバードは、翌年3月にはSU キャブの65馬力エンジンを搭載した1200SS(スポーツセダン)を追加。1965(昭和40)年 5月には発展型の1300SS と1600SSS が登場しました。このクルマは、1966(昭和41)年の第14回東アフリカ・サファリラリーで、日本車初のクラス優勝を果たしたマシンで、完走が88台中わずか9台という過酷なウエットコンディションの中、ブルーバードは2台完走の快挙でした。クラス優勝の6号車は急きょ空輸で日本に運ばれ銀座に展示されました。

この時の日産チームの活躍を当時の実験部長・笠原剛三が著書『栄光への5000キロ』にまとめ、後の1969(昭和44)年に石原裕次郎主演で映画化されました。

1970年 ブルーバード 1600SSS 第18回東アフリカ・サファリラリー 総合優勝車

初代(310型系)、2代目(410型系)に続き、1967年(昭和42年)8月、ブルーバードは3代目となる510型にフルモデルチェンジを果たしました。この510型も歴代ダットサンと同様、国際ラリーの過酷な舞台で鍛えられ、そのポテンシャルの高さを実証していきます。そして、1970年(昭和45年)の第18回東アフリカサファリラリーにおいて、1600SSSをベースにしたラリーマシン(直列4気筒1595cc・130馬力)が、総合/クラス/チームの各部門を征し、国産車として初の3冠完全制覇を達成。日産自動車が同ラリーに初挑戦してから、8年目にしての快挙となりました。

510型は、昭和の名優、石原裕次郎さん主演の映画「栄光への5000キロ」(1969=昭和44年7月公開)で、同ラリーを舞台に成長していく若きドライバーに扮する石原さんのマシンとして共演した「スクリーン上の名車」の一台として記憶されています。

昭和の大スター・石原裕次郎の3大主演映画と言われれば、デビュー作の「太陽の季節」(1956年)を入れるべきでしょうか?・・・しかし他2作は「黒部の太陽」(1968年)と「栄光への5000キロ」(1969年)だと自信を持って言えます。

その「栄光への5000キロ」ですが、カー・レース&ラリーもので、庶民には海外旅行など夢また夢の時代に、ヨーロッパ&アフリカの長期ロケを敢行したビッグバジェット作品です。原作は1966年のサファリ・ラリーで初のクラス優勝・チーム優勝を果たした日産チーム監督・笠原剛三氏による「栄光への5000キロ東アフリカ・サファリ・ラリー優勝記録」。原作のラリーだけでは地味だと判断されたのか、男女の恋愛劇(これは映画として仕様がない)、さらには意味なくカーレースもねじ込まれ盛沢山。おかげで題材は消化不良となり、ただただ荒唐無稽さを際立たせています。

随所にみられる当時のレーシングマシンの映像(特に今は無き日産の村山テストコースのバンクを疾走するR381は圧巻!)には目を引き付けられるものがあるのですが、残念ながら肝心の話が絶望的につまらない。(サファリ・ラリーを、ただリアルに描けばいいのに!それだけで最高のドラマとなるはず・・・あ、それで失敗したスティーブ・マックイーンの「栄光のルマン」があるか!)何度か視聴したのですが、3時間近い映画なので、たいてい途中で寝落ちしてしまいます。

5000km_003
ホンモノの桜井眞一郎氏(左端)が出演しているのも見もの。その隣は言わずと知れた三船敏郎、ひとりおいて仲代達也(若い!)

5000km_010
日本版ポスターには、6人の出演者の顔が並んでいます。一番手前が石原裕次郎、ひとりおいて三船敏郎、その隣が浅丘ルリ子となっています。この配置を覚えておいてください

5000km_008
フランス版のポスター。6人から主演であるはずの石原裕次郎が省かれています!名前のクレジットすらありません。日本人では、三船敏郎のみクレジットされています。(さらに本編にないF1GPと思われるシーンが描かれていますが??)

safari5000
スペイン版。石原裕次郎の顔は省かれていますが、名前は堂々、まん中にクレジットされています。

safari_5000_01
イタリア版では、浅丘ルリ子のドアップの顔と三船敏郎のクレジットのみ。

5000km_001
同じイタリア版ですが、誰が主演なのかがよくわかります。おそらく大胆な編集で、主役が外国人俳優の方に変更されているのでしょう。

5000km_001a
ポーランド版。日本のフィルムと謳っています。となれば当然、石原裕次郎はクレジットされています。

polish_version
メキシコ版。石原裕次郎は顔どころか、スチール写真まで採用されています。が、なぜか名前のクレジットはありません。

mexican_version

1971年 フェアレディ240Z 第19回東アフリカサファリラリー優勝車

スポーツカーであるフェアレディZは、その性能の高さを実証する意味も込めて、過酷なモータースポーツとして知られるラリーの世界へも挑戦しました。このクルマは、1970年(昭和45年)第18回サファリラリーで総合優勝を果たし、「ラリーの日産」を強く印象付けたブルーバード(510型系)の後を引き継いだモデルで、1971年の第19回同ラリーで、初出場ながら見事に総合優勝を獲得しました。また、2位にもフェアレディ240Zが入り、日産のサファリラリー2年連続制覇を1-2フィニッシュで飾りました。エンジンは、直列6気筒OHC・2393ccのL24型を210馬力にチューンナップしたものを搭載していました。2013年、日産自動車のボランティアグループ「名車再生クラブ」の手により、当時のダメージを残しつつフルレストアされ、走行可能な状態に戻りました。

1972年 ダットサン 240Z 第41回モンテカルロラリー3位

フェアレディ240Zは、アフリカの大地を疾走するサファリのほかに、雪と氷の上を舞台にした1972年(昭和47年)の第41回モンテカルロラリーにも参戦しました。総合3位を獲得して、世界中のラリー関係者を驚かせました。それは、フェアレディZが車両前部にエンジンを搭載して、後輪を駆動して進むFR(フロントエンジン・リヤドライブ)駆動方式を採用していたからです。このFR方式は氷雪路では不利(エンジンの位置と駆動輪が同一な、FFやRRの方が駆動輪に重量がかかりやすく空転しにくい)である、と出場前からもっぱらささやかれていましたが、これを見事にはねのける結果を勝ち取ったからなのです。そして、このモンテカルロラリーやサファリラリーでの活躍により、当時国内で行われていたラリーに、フェアレディZで参戦するドライバーが増えました。このクルマは1972年モンテカルロラリー3位入賞車。

1973年 ダットサン240Z 第21回サファリラリー優勝車

ロングノーズ&ショートデッキという、スポーツカーらしいスタイリングで、北米での人気はもとより、日本国内にも旋風を巻き起こしたS30型フェアレディZが発売されたのは、1969年(昭和44年)です。日本では当初2Lモデルのみで、2年後の1971年(昭和46年)には、L24型エンジンを搭載した通称240Zと呼ばれる北米仕様と同じ2400ccモデルが追加されました。240Zは海外ラリーでも活躍し、1971年と1973年(昭和48年)のサファリラリーでは総合優勝を飾っています。1973年には、規則で許されている上限の2497cc(LR24型)まで排気量アップを行い、220馬力というハイパワーを誇りました。車高が高く、スパルタンで屈強さを醸し出しているゼッケン1号車は、1973年に優勝したマシン(S・メッタ/L・ドリューズ組)です。

1973年 ブルーバードU 1800SSS

1971年(昭和46年)1月、より大きくゆったりとしたボディをまとって誕生したブルーバードシリーズの4代目が、ブルーバードU(610型系)です。市販モデルは当初、3代目ブルーバード(510型系)と併売されていましたが、国際ラリーでは先代からバトンを受け、1973年(昭和48年)に開催された、第21回東アフリカサファリラリーに挑戦。この年のサファリで、日産チームはフェアレディ240Zで総合優勝を果たしましたが、ブルーバードUはこれに続き総合2位に入賞、さらにクラス優勝も獲得。「ラリーの日産」を強く世界へ印象付けることに成功しました。

1977年 バイオレット 第12回サザンクロスラリー優勝車

初代バイオレットはスポーティーな装いの2ドア/4ドアセダン、2ドアハードトップという、3つのボディスタイルをもち、1973年(昭和48年)1月に登場しました。当初は直列4気筒OHCの1400ccと1600ccエンジンをラインナップ。また、ブルーバードの姉妹車であることから、710という型式名が授けられ、海外ラリーにも果敢に挑みました。このクルマは、1977年(昭和52年)にオーストラリアで開催された、第12回サザンクロスラリーに、輸出仕様名のダットサン160Jでエントリー。エンジンはモータースポーツマシン用に開発され、ラリー用のチューンナップを加えたLZ18型(直列4気筒DOHC・1991cc、最高出力200馬力以上)を搭載。オーストラリアの過酷な道を走り抜き、見事に優勝(R・アルトーネン/J・ビューム組)を果たしました。

1982年バイオレット 第30回サファリラリー優勝車

バイオレットは高い走破性と信頼性の高さをフルに発揮して、1982年(昭和57年)の第30回サファリラリーにおいて、総合優勝をつかみ取りました。この勝利によって、日産自動車は同ラリー史上初の4連覇(1979年~1982年)を達成。クルマだけでなく、ドライバー:シェカー・メッタ、ナビゲーター:マイク・ドウティのクルーとしても、同ラリー史上初の4連覇を成し遂げ、大きなニュースになりました。このマシンのエンジンは、直列4気筒DOHC・1975ccで、230馬力の最高出力をマークしたグループ4仕様のLZ20B型を搭載していました。バランスに優れたシャシーと高出力性、耐久性を兼ね備えたエンジンを持つPA10バイオレットでしたが、この年限りでグループ2/4規定が終了、華麗な戦績を残してラリーカーとしての歴史を閉じました。2009年、「日産名車再生クラブ」が当時のダメージを残しつつレストアし、次世代への継承を図っています。

1982年 ニッサン240RS 1983年モンテカルロラリー仕様

1979年(昭和54年)に登場の3代目シルビア(S110型)は、姉妹車として誕生したガゼールも含め、スポーツ&スペシャリティを志向したクルマですが、同時にスーパーシルエットレースやWRC(World Rally Championship:世界ラリー選手権)など、モータースポーツに縁の深いモデルでもありました。この240RSは、WRCへの参戦をにらんで、当時のグループB規定に基づく競技用車両としてS110型シルビアをベースに開発され、グループBの最低生産台数である200台あまりが生産されました。海外での販売を念頭においたため、大半が左ハンドル仕様でした。搭載されるFJ24型2,340ccの自然吸気エンジンは、50Φソレックスキャブレター2基を装着した仕様で240馬力、ワークスカーのFJ24改に至っては275馬力に達しました。優勝こそなかったものの、1983年ニュージーランドラリーで2位、1985年サファリラリーで3位などの戦績を残しています。このクルマは2006年、日産名車再生クラブにより、デビュー戦の1983年モンテカルロラリーに送り出そうという仕様にレストアされました。日産名車再生クラブが初めてレストアしたマシンです。

1988年 シルビア 200SX 第36回サファリラリー出場車

日産は、1987(昭和62)年にWRCの規定がグループBからグループAに切り替わったことを受け、ラインナップ中からラリーに適したした車種としてシルビアの3L仕様となる「200SX」を選択します。シルビアは(ニッサン200SX)、ラリー用に最高出力が250馬力以上となる3000ccのV型6気筒OHCエンジンを搭載していました。このクルマは、1988年(昭和63年)の第36回サファリラリーで総合2位(M・カークランド/R・ニクソン組)となり、A4クラス(2000cc以上の2WD車)優勝を成し遂げたシルビア(RVS12型)です。なお、第36回サファリラリーは、大会前の大雨の影響で完走したマシンが14台という過酷さでしたが、シルビア200SXに続き、マーチターボ(K10GFT)もA3クラスで優勝し、日産チームは2階級制覇の偉業を成し遂げました。

1991年 パルサーGTI-R アクロポリスラリー出場車

4代目のパルサー(N14)の発売は1990年(平成2年)8月でした。先代N13型からの正常進化という趣で、全方位的に性能が向上しました。最強のスポーツグレードには、ブルーバードSSS-R と共通の2L直列4気筒DOHC ターボのSR20DET 型230馬力のエンジンを搭載し、フルタイム4WD システム「アテーサ」を採用した「GTI-R」 をラインナップ。それまでWRCに適したグループAラリーカーを持たなかった日産にとって、待望のターボ4WDカーがパルサーGTI-Rでした。このGTI-R をベースにしたグループAラリー カーが1991(平成3)年のサファリラリーでWRC(世界ラリー選手権)にデビュー、以後2年間活躍しました。この18号車は、1991年アクロポリスラリーに出場したD・ルウェリン/P・デュークマン組のマシンです。

2004年 ニッサン ピックアップ 2004

パリ・ダカールラリーの記念すべき第1回大会は、1978年の12月26日にパリのシャイヨー宮前トロカデロ広場をスタートし、アルジェリア、ニジェール、マリを経由して1月14日にセネガルの首都ダカールに到着という10000㎞の行程で行われました。日産車の初参加は1982年のパトロール(KR160型)で、その後テラノ(WD21型)が市販車無改造(T1)クラスなどで上位入賞やクラス優勝を複数回果たし、2001年には2代目テラノ(R50型)もT1クラス優勝しました。日産のワークス参戦は2003年~05年の3年間で、マシンはラリーレイド仕様のピックアップ(D22型)。このクルマはワークス参戦2年目のテレフォニカ・ダカール2004仕様車のモックアップ。この年は総合7位に入りました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です