2015/11/7 横浜ヒストリックカーデイ4th (1/2)

横浜の赤レンガ倉庫前で繰り広げられる旧車ミーティング、E藤氏が行って参りました。参加資格は「原則として1974年迄に生産された自動車」とのことです。

ASA 1000GT

なんと、ASA ですよ、ASA。死ぬまでにASA の実車を見る機会があるとは思っていませんでした!

ASA 1000GT とは、分かりやすく言えば、1000ccのスモール・フェラーリです。ディーノと一緒で、12気筒でなければフェラーリと名乗らせない、という不文律のため、ASAという別会社を通して売られることになったと巷では言われています。(実は、事実はちょっと違うようです)

ティーポ 173と呼ばれる直4 SOHC 1,032ccエンジンは、正真正銘、フェラーリ設計、フェラーリ生産です。ウエバー 40 DCOE9 ツインチョークキャブレターを2基装備し、7,000回転で97馬力を発生するというハイ・チューンがなされています。(実用では耐久性を重視し、6,800回転で91馬力を最高馬力としています)

語るに足るクルマ・・・・今回のウンチクのネタは ASA といたしましょう!!

1959 ティーポ 161

ASA の始まりは、とあるエンジンからでした。

1959年12月、フェラーリから ティーポ 161 というエンジンが発表されます。850cc 4気筒というフェラーリとしては異例の小型エンジンでした。フェラーリらしくオールアルミ製で、7,000回転で68馬力を発揮したということです。

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驚くべきことに、ティーポ 161 の報道陣へのプレゼンテーションはエンツオ自身が行いました。

フェラーリの独裁者エンツオは、自身のカリスマ性をコントロールするため、むやみに人前に出ないことで有名でしたから、このエンジンに対するエンツオの力の入りようが分かるというものです。

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1958 フェラリーナ

1958年から始められたフェラーリ製小型エンジンの開発は、FIAT 1200 クーペに載せられて行われました。テストに使われた1200クーペは、ピニンファリーナの工房でホイールベースを20cmほど縮められた上、巨匠セルジオ・スカリエッティ自身の手によってボディ細部にモディファイを加えられたスペシャルで、社内では「フェラリーナ(可愛いフェラーリ)」と呼ばれていました。

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フェラリーナのグリルの真ん中に鎮座するエンブレムは跳ね馬ではなく、なぜかマシンガンのシルエット!!さらに、ボンネット先端の FIAT のエンブレム部があるべき個所に、★型のマーキングが・・・(これはエンツオの FIAT に対する当てつけということで、それについては後述いたします)

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エンツオはこの車をテストを兼ねプライベートカーとして使用していました。

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「ASA 1000GT は、小型のフェラーリを自社のラインアップに加えることをエンツオが強く望んだことから生まれた」と言われることが多いのですが、これは後付けの「ちょっとイイ話」で、事実とは異なるようです。

4年後の1963年にはフォードへの身売り話が具体的になるほど、この頃のフェラーリの財政は逼迫していました。なにか良い商売のネタはないかと探していたフェラーリでしたが、当時、FIAT のチューンド・エンジンを載せたアバルトやジャンニーニが大活躍していた頃で、それに刺激を受けた御大エンツオは、フェラーリでも4気筒1000cc以下の高性能エンジンを開発し、それを FIAT に売り込んで、何がしかの対価を得ようとの考えに至ったのです。

エンジンを造ってはみたものの、FIAT から色よい返答を得られなかったため、それならば、エンジンのみならず車全体まで造ってしまえ、と計画を昇華・変更したとのこと。これが、スモール・フェラーリ誕生の経緯の定説です。(上の★印の真相というのが、FIAT にすり寄ったものの自分の思う通りに話が進まなかったことに腹を立てたエンツオが FIAT のエンブレムを取り外して★マークを貼ったとのことです)

1961 フェラーリ ディノ 1000

そのプロトタイプは1961年、トリノショーのベルトーネ・ブースで公開されます。スタイリング担当は若きジウジアーロ、まだ20代前半でした。この車は「フェラーリ ディノ 1000」と呼ばれることになっていたようですが、ショー直前になって取り止められ、そのエンブレムには、ただ「1000」(ミッレ)とだけ入っていました。

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仮ナンバー(PROVA)を付けて公道テスト中のプロト。フェラーリの本拠地モデナ(MO)ではなくミラノ(MI)のナンバーを付けています。ということは・・・!?

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1962 ASA 1000GT

1962年のトリノショーで、生産型が発表されたのは、ベルトーネのブースでも、フェラーリのブースでもありませんでした。ASA なるメーカーのブースで、その名称は「ASA 1000GT」となっていました。

1000ccフェラーリの製造権は、フェラーリの顧客でイタリア工業会で著名な実業一家、デ・ノーラ家に譲渡されていました。デ・ノーラ家は1962年4月、その生産を司る会社を新たにミラノに設立し、ASA = Autocostruzioni Societa per Azione (自動車製造株式会社) と名付けました。

ASAとフェラーリとの間で、「ASAはフェラーリの名称やエンブレムは一切使用しない」という取り決めがなされており、これは 1,000㏄ 4気筒はフェラーリの高級イメージにそぐわないというフェラーリ側のマーケティング上の理由によるもの、とされています。

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フランコ・ロッキ設計の849cc ティーポ 161 エンジンをベースに、途中、973cc を経て、1032cc ティーポ 173 エンジンとなるまで開発を進めたのはルイジ・バッジでした。生産もフェラーリが担当しました。

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シャーシの設計・開発は250GTOの開発者として著名なジョット・ビッザリーニです。当時のフェラーリの手法そのままの楕円鋼管フレームが用いられています。

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フロント・サスペンションは、ダブル・ウィッシュボーン。リアは、高級GTでもリーフ・リジッドが当たり前だった時代に、ダブルトレーリングアーム・ワッツリンクという凝った構成でファイナルケースを位置決めしています。ブレーキは、ガーリング製ディスク・ブレーキを4輪に奢っていました。

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1963 ASA 1000GT スパイダー

1963年のジュネーブショーで、スパイダーが新たにラインアップに加わることが発表されます。ボディはクーペのスチール製とは異なりFRP製。

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クーペとスパイダーがラインアップにそろい、1964年から本格的な生産が始まった1000GTに対する市場の反応は冷たいものでした。1000ccという車格に対し、価格があまりに高すぎたのです。

1000GTの価格は、クーペ、スパイダーとも252万リラ(1965年)でしたが、これはフェラーリ275GTBの約半額、車格は上とされるアルファロメオ・ジュリアスパイダー(1600cc)の約1.4倍にあたります。英国では、4L DOHC 6気筒で260馬力以上を発揮するジャガー・Eタイプとほぼ同じ価格でした。

1000GTの生産にあたり、エンジンは「フェラーリ」、シャーシは「ウンベルト・マルケージ」が製造、「カロッツェリア・エレナ」でクーペの、「ベルトーネ」でスパイダーのボディ製作とその架装が行われるという、フェラーリと全く同じ生産方法が採られました。これではフェラーリより安くなるのは、その差8気筒分だけといったところで、その高生産コストは ASA の活動期間をきわめて短いものとする主要因となりました。

1963 イノチェンティ 186GT

フェラーリは、最初からスモール・フェラーリを自分で造る気はなかったことを補強する事実を、ここでご紹介します。

FIAT に袖を振られた後、フェラーリはデ・ノーラ家の他に、イノチェンティにも接触しています。イノチェンティは当時、スクーターのランブレッタの製造や英国BMCのパーツを使った小型車の生産などを行っていました。

1962年にフェラーリがイノチェンティのためにスポーツカーを造るという合意がなされると、翌1963年には早くもプロトが完成します。すでに ASA で使ったネタの使いまわしゆえの速さといえましょう。ただし、こちらへの提案は 1.8L V6で、ASA よりも上級マーケットを狙ったものでありました。

そのプロトが、186GTです。デザイナーが同じジウジアーロゆえ、ASA 1000GT と非常によく似ている・・・というか、186GT は 2+2 ゆえ、ルーフラインは鈍くなっていますが、両車の根本的なプロファイルは同一(使い回し)ですね。

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エンジンは当然フェラーリ製で、その V6 は、伝統のコロンボ・ユニット(250 系 V12)を横に半分にしたもの。排気量は1,788cc、7,000回転で156馬力を発するとされています。設計は、850cc 4気筒と同じフランコ・ロッキが担当しました。

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186GT は、イノチェンティの財政難によって、1964年にお蔵入りが決まりますが、率直に言って、イノチェンティのビジネス・レベルにそぐわないクルマでした。お蔵入りの判断は賢明で、ASA のように大火傷をせずに済んで良かったのではないでしょうか。

ASA のレース活動

フェラーリの成功はレース結果によるものであり、ピッコラ・フェラーリたる ASA においても、レース活動は自社のブランドイメージの構築において、不可避のものでありました。

ワークスチームとしてのレース活動は1965年、1966年のわずか2年間のみ。タルガフローリオ(1965/1966)、ニュルブルクリンク(1965/1966)、ルマン(1966)の3コースを走っていますが、ASA のレース活動は、市販車と同じく一部に目を見張るものがあったりするのですが、市販車の販売成績と同様、結果につながらず、さえない内容で終わってしまったと言わざるを得ません。

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1966 Targa Florio – ASA 411 – 21th

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1966 Targa Florio – ASA RB 613 (Early) – DNF

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1966 LeMans 24H – ASA RB 613 (Late) – DNF

その中の「目を見張るもの」が、1,290cc で 124 馬力を発する6気筒エンジンです。一目見て、名器の誉れ高いコロンボ・ユニット(250系V12エンジン)の片側バンクを取りだしたものと分かります。

この6気筒はレースでのみ使われましたが、来るべき新型市販車のために準備されていたもので、まもなくやって来る ASA の終焉で、それは実現しなかったと考えるのが順当でしょう。

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他にも、対米輸出用に、新設計の 1.8L 4気筒も準備されていました。おそらく、US から、 1.1L はUSでは小さすぎる。排気量を大きくして欲しいという要望でもあったのでしょう。これもレースに使われましたが、市販車に積まれることはありませんでした。

1967 ASA の終焉

最初から最後まで業績不振に見舞われた ASA の車両生産は1966年半ばに停まり、1967年末に ASA は廃業に至ります。2年半に渡る 1000GT の生産期間で、クーペは100~110台程度、スパイダーはわずか12台程度が世に出たと言われています。

US初のフェラーリ代理店として、5、60年代の富めるアメリカ人相手にフェラーリを売りまくっていたことで有名なルイジ・キネッティは、ASA 1000GTの販売も行いましたが、彼の手腕をもってしても、販売は低迷しました。

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ASA 1000GTにフェラーリのバッジが付いていれば売れたはずだ、という意見は常にありました。そこでキネッティは、ASAとフェラーリの関係を広告上で「それとなく訴える」という「禁」を冒して販売に努めてみましたが、結局、市場の反応は変わりませんでした。

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ディーノ 246GTB

フェラーリ 512BB

マセラティ クワトロポルテ

デトマゾ パンテーラ GTS

ガレージ伊太利屋モノ!当時、US仕様を入れていたんですね。

フィアット 850

フィアット 500

フィアット 500

フィアット 500 ジャルディーニエラ

車体を延長、エンジンを水平シリンダ仕様としてエンジンルーム高さを抑え、後部に荷台を捻出したメーカー謹製エステートヴァン仕様。

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カロッツエリア・ギアは、ジャルディーニエラを使って、ピックアップトラックを試作しています。

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1962 Fiat 500 Ziba

こちらは同じギアによるジョリー。高級リゾートで足とする、いわゆるビーチカーです。ベースはジャルディーニエラではなく、ノーマル500ですが、量産されました。濡れた水着で乗ることもあることに配慮し、シートは籐製となっています。

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1957-66 Fiat 500 Jolly

フィアット アバルト124ラリー

フィアット アバルト X1/9 プロトティーポ

フィアットのラリー部門(アバルト)は、124ラリーの後継としてX1/9を選び、1973年から、そのグループ4ラリー仕様の開発を開始します。6台のアバルトX1/9が造られ、イタリアおよびフランスの国内ラリーに出場し、車両の熟成が進められました。

1974
しかし、1975年にフィアットとランチアのラリー部門の統合がなされると、ストラトス(1974-75年)と同じミッドシップ・ラリーカーは不要と判断され、アバルトX1/9はお蔵入りになってしまいます。

この車両は6台のうちの1台でしょうか?それともレプリカなのでしょうか?

アルファロメオ ジュリア・スプリントGT

アルファロメオ GTA1300ジュニア

レース向けにボディ材をアルミに置き換え、軽量化(Alleggerita)を果たした「GT」が「GTA」です。

アルファロメオ 2000GTV

アルファロメオ1600スパイダー・デュエット

ボートテールを持つ最初期型です。

アルファロメオ ジュリエッタ スプリント スペチアーレ

アルファロメオ ジュニアZ

アルピーヌA110

アルピーヌA110

シトロエン 11CV

シトロエン 2CV 6 チャールストン

パナール PL17

パナール・ディナ54(1954年)は、ボディとシャーシすべてをアルミ合金とし、軽量化を果たした意欲的な車でしたが、高コストゆえに高価格でありました。そこで登場したのが、ボディをスチール製とし、製造コストを抑えたパナール・PL17(1960年)でした。

英車の場合、名前だけでイッパイ、イッパイです。むしろ名前が一番、一筋縄じゃない。マイナーチェンジで、Mk.II、MkIII、Mk.IV・・・同じ車をちょっとだけ外観を変えて、オースチン、モーリス、ウーズレイ、ライレー・・・ただただ混乱するのみです。

トライアンフ TR6

トライアンフ TR4

ヒルマン インプ

OHCヘッドを持つオールアルミのコヴェントリー・クライマックス FWM 875cc をリアに45度傾斜させて搭載。

オースチン A105 シックス

102馬力を発する 2639 cc 6気筒エンジンを積むA90のホットモデル。

オースチン A35 カントリーマン

モーリス マイナー

モーリス マイナー トラベラー

モーリス・オックスフォード シリーズ6

MG ND マグネット

の様な気がします・・・

MG TD ミジェット

だと思います・・・

MG マグネット

MG ミジェット Mk.III

オースチン・ヒーレー・スプライトの兄弟車。

MG A

MG B

BMC ミニ

BL ミニ Mk.III

オースチン・ミニ Mk.I 風?

BL ミニ

グリルのAAは英国版JAF、AA (=Automobile Association) のバッジでしょうか。

オースチン・ミニ ヴァン

オースチン・ミニ カントリーマン

BL ミニ クラブマン

ジャガー Eタイプ FHC

ジャガー Dタイプ

1972 ディムラー ソヴリン 4.2

ロータス 7 シリーズ2

ロータス 7 シリーズ4

ロータス エラン S3

エランって良く似たのが 4+1 種類もあって、とくに興味もないので分別に疲れます。サイドに窓枠があって、Rフェンダーアーチがノーマル → シリーズ 3 !!

ロータス エラン・スプリント

これはボディ横にデカデカと名前を書いていてくれるので、分別は楽です。

BMW 600

BMW 2000C or CS

スタイリングはベルトーネのマルチェロ・ガンディーニによる。ガンディーニにしては、まだおとなしめとはいえ、1965年のデビュー時には十分エグみの効いたデザインには賛否あったとか。

2000Cはシングル・キャブレター(ソレックス 40PDSI)で100馬力を、2000CSはツイン・キャブレター(ソレックス 40PHH)で120馬力を発します。

1953 メルセデス・ベンツ 1706

1970 メルセデス・ベンツ 280SL

メルセデス・ベンツ 280SL

プラークにある「ウエスタン自動車株式会社」はヤナセの輸入部門。

メルセデス・ベンツ 280SE 3.5

フォルクス・ワーゲン タイプ1

フォルクス・ワーゲン タイプ3

カルマン・ギア

ポルシェ 911カレラ

1970 ポルシェ 911T DX

ポルシェ 911タルガ

ポルシェ 914

1959 キャディラック

1964 コルベット

1970 コルベット

ウイリス M48

1970 ボルボ P1800E

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