2015/02/22 第3回 U1000 in しらこばと公園

 いつものE藤氏が埼玉県越谷市のしらこばと水上公園に小型の旧車を見に行ってきたというので、ご紹介いたします。参加車は「原則として昭和時代に生産された1000cc未満の車検付きの3輪車・4輪車」だそうですが、排気量や年式は緩い基準の模様です。

以下、解説はWIKIから引用しております。

HONDA T360

 1963(昭和38)年8月に発売されたホンダ初の4輪自動車は軽トラックで、日本初のDOHCエンジン搭載車であった。1967(昭和42)年11月、後継車TN360に道を譲り生産中止となる。

 T360のトラック用としては異例のオールアルミニウム合金製、水冷直列4気筒DOHCエンジンは、同時に開発されていたスポーツカーS360(S500として発売)とエンジンが共用された結果であった。S360そのままに京浜製キャブレターを4連装、あるいは三国製ツインチョーク・キャブレターを2連装し(後期型はシングルキャブレターに改変される)、360ccで30PS@8,500rpmと異例の高回転・高出力であった。 


 360ccエンジンは85馬力/L、500ccエンジンは72馬力/Lとどちらもかなりのハイチューンとはいえ、360ccのチューンの高さが際立つ。



 珍トラック用珍品パーツ。クローラのオプション設定があった。

 クローラの発案は藤沢武夫副社長(当時)によるもので、福島県で製材業を営む親戚の事業の手伝いをしていたときの経験に基づくものだという。(元ネタは戦時中に見たであろう軍事用ハーフトラックと思われる)


 クローラパーツは後継のTN360にも設定あり。(実は、T360分の売れ残りがキャリーオーバーされたとか?)


 TN以降空席となったクローラであったが、時を空け、1994(平成5)年、再びクローラが復活した。T360、TN360時代のポン付けとは異なり、後輪2軸の専用設計となっている。クローラ・パーツを外し、普通のタイヤを付ければ6輪車としても使用可能である。


 ちなみに三菱にも後追いが存在する。

crawler

 1997(平成9)年にミニキャブ4WD用として、1999(平成11)年にはパジェロ用としてクローラーを用意していた。必要に応じて通常タイヤとクローラーを選択可能であった。ちなみに1クローラーあたり70kg以上あるそうだ。

HONDA S800 Coupe

 S500、S600に続くホンダ・スポーツカー3作目。1966(昭和41)年1月から1970(昭和45)年5月まで生産される。T360の360ccから始まった水冷直列4気筒DOHCエンジンは791ccまで拡大され、最高出力は70PS@8,000rpmを発揮した。

 ごく初期型は、リア駆動にチェーンを用い、チェーンケースにトレーリングアーム機能を兼ねさせる特異な機構をS500、S600から引き継いでいた。この複雑な機構は本田宗一郎のこだわりである一方、技術者にとっては重量過多のみならず、チェーンの耐久性が常に不安の種であったが、北米における厳しい使用条件を理由についに本田宗一郎を納得させ、1966(昭和41)年4月、一般的なリジッドアクスルに改修された。

sus03
sus02
sus01

HONDA N360

 1967(昭和42)年3月から販売開始。控えめに言って、BMCのミニの強い影響を受けているといえる。

 ミニ同様、横置きFFに搭載されたエンジンは、CB450に搭載されていた空冷並列2気筒エンジンをベースに開発された。排気量は354 cc、最高出力は31 PS@8,500 rpm に達し、ホンダお得意の高回転型エンジンとなった。4速MTも、初期型ではCB450譲りの常時噛み合い(コンスタントメッシュ)式のドグミッションであった。ハイパワーなN360がヒット作となったことで、軽自動車業界はカタログ出力を誇示しあう馬力競争に突入する。

 1969(昭和44)年以降、アメリカで社会問題になっていた欠陥車問題が日本にも波及し、日本自動車ユーザーユニオンによってN360には操縦安定性の面で重大な欠陥があると指摘され、未必の故意による殺人罪で本田宗一郎は告発された。(結局、不起訴となった)これにより、発売以来3年間日本国内販売首位を誇ったN360の人気は下がり、1971(昭和46)年に後継モデルのライフが発売されたこともあって、1972(昭和47)年に販売を終えた。

 画像は1970(昭和45)年からの後期型 N III 360。グリルのデザインが変わっているのが外観上の大きな特徴。内部的にはミッションがフルシンクロ化されている。

HONDA N600

 N360の排気量を400cc、600ccに拡大したN400、N600が、欧州、米国に輸出された。(一方、当時の西ドイツでは、250cc以下の自動車には優遇税制、免許制があったことから、ボアダウンキットで250ccにするユーザーもいた)

 600ccモデルは日本国内向けにも1968(昭和43)年6月からN600Eとして市販されたが、軽自動車の優遇税制を受けられないことから販売が振るわず、わずか半年間、1,500台程度の販売で生産終了した。

 「サンルーフ」、豪華版「M」、スポーツ「S」、2座商用「G」、普通車「N600E」、ライトバン「LN360」といった充実のラインアップは、当時販売首位の座にいたスバル360のものと完全にオーバーラップしており、360の徹底的な追い落としを図ったことがうかがえる。

n360-2
 N360が標榜する「国民車」の表現もスバル360が好んで使っていたものである。実際、売り上げ台数1位の座を、発売後すぐにスバル360から奪い取ったのだった。

n360-01

HONDA LIFE 360

 画像の初代モデルは1971(昭和46)年から1974(昭和49)年まで販売された。

 前作N360のフォーマットを継承しつつも、翌年に発表されるシビックとの共通点も多い。直列2気筒エンジンは空冷から水冷に改変され、日本で最初にタイミングベルトを採用したエンジンとなった。

HONDA CIVIC

 1972(昭和47)年に販売が開始されたホンダの世界戦略車。1973年12月、排出ガス浄化技術CVCCを採用した1.5Lモデルが、1974年10月には、シビック初のスポーツモデル、5速MT、76PSの1200RSが追加された。

 シビックの世界的ヒットは、空冷エンジン搭載の1300の大失敗で四輪撤退が囁かれていたホンダを立ち直らさせる原動力となった。

 1973(昭和48)年に発表されたCVCC(複合過流調速燃焼)エンジンは、希薄燃焼方式を採用することで後処理装置を使用することなく、 技術的に困難とされていたマスキー法をいち早くクリアした。(USのビッグ3は、マスキー法をクリアするための技術開発面ではなく、規制値を緩和させるよう政治面にエネルギーを使っていたという)しかし、排ガス浄化方法の「正解」は三元触媒であったことは歴史が示している。

cvcc

TOYOTA PUBLICA Convertible

 初代パブリカは1961(昭和36)年から1969(昭和44)年まで生産された。

 1950年代の国民車構想の影響を受け結実したパブリカは国民車らしく清廉なシンプルさを身上とし、700ccで軽自動車並みの価格設定を実現したが、それでも高価な買い物である自動車に非日常性を求めていた消費者は、同じ価格帯ならデラックスさを打ち出した軽自動車へと流れ、販売台数は低迷した。それに対し、1963(昭和38)年に「デラックス」と「コンバーチブル」が追加発売される。1966(昭和41)年に大規模なマイナーチェンジが行われ、排気量が800ccに拡大された。

 トヨタはパブリカでの一件を教訓とし、1966(昭和41)年に発売された初代カローラでは競合よりも豪華であることが重要な開発・販売戦略とされ、以後、トヨタのお家芸となった。

TOYOTA S800

 1965(昭和40)年発売。もともとはパブリカ・スポーツであったため、大衆車パブリカのシャーシと水平対向強制空冷2気筒エンジンが流用された。100ccの排気量拡大とツイン・キャブレターを装備するも45PSと非力であったが、軽量構造と空気抵抗の少なさで優れた性能を発揮した。ホンダSの善きライバル。

 1969(昭和44)年の生産中止までの総生産台数は、わずか3,131台に留まっている。

 JAFと鈴鹿サーキットとの金銭的確執という大人の事情で中止と相成った1965年の日本GPに代わり、その年の日本最大のレースとなったのは、関東初のサーキット「船橋」の開幕戦 CCC(カー・クラブ・チャンピオンシップ)であった。そのGT-Iクラスのこと。トヨタS800駆る浮谷東次郎は序盤のトラブルで最後方まで落ちたが、果敢な追い上げの末、ホンダS600でトップを疾る生沢徹を捕らえると、見事、逆転するという劇的な勝利を果たした。このエピソードは、日本のレース史上で伝説的語り草となっている。

1965funabashi
 「無事故・無違反の方におすすめしたい車です」・・・なんというコピーだろうか。よほど事故と違反が多かったのだろうか?(ホンダのCRX的存在?)

s800ad

DATSUN 210

 1957(昭和32)年から1959(昭和34)年まで生産。後継モデルは初代ブルーバードP310。

 1958(昭和33)年8月に開催された世界一過酷といわれた豪州一周ラリー「モービルガス トライアル」に2台の210、富士号と桜号が参加する。前年にクラウンRSがゴールにたどり着いたものの時間外で完走扱いにならなかったラリーを、参加初年度で富士号が、NISMO初代社長・難波靖治氏のドライブでクラス優勝・総合25位、桜号がクラス4位入賞・総合34位の結果を残した。(なお出走65台・完走34台である)日本車の国際ラリー参加黎明期に果たした快挙として、伝説的逸話となっている。

210 FUJI

210 SAKURA

NISSAN SUNNY 1000

 初代サニーは1966(昭和41)年から1970(昭和45)年まで生産された。サニー用A型エンジンは、改良を受けつつ30年にわたって作り続けられ、傑作エンジンの評価を得ている。レーシングエンジンとしてのポテンシャルも高かった。

 2大リーディング・メーカーの看板車であったカローラとサニーとの販売戦争は、常に注目され、話題を提供してきた。

 初代サニーは「驚きの625kg!」と車両重量が軽量であることをことさら強調していた。(オーストラリアでの広告)

ad01
 しかし、サニーより遅れること半年後に登場した初代カローラは「プラス100ccの余裕」とし、排気量が100cc大きいことを売りにし、販売好調だったサニーを、あっというまに後塵を拝することに成功した。

ad02
 カローラに市場を持って行かれてしまったサニーは、1970(昭和45)年のモデルチェンジで1200ccまで排気量を挙げ、「隣のクルマが小さく見える」と、隣の家のクルマ、カローラにカマしをかける。

ad03
 初代の「驚きの625kg!」はどこへやら、カタログでは「2まわり豊かになっ」たことを売りにしている。「DELUXE」の文字もこれでもかとばかりにべたべたと。

ad04
 看板車サニーも、いまや日産のカタログから滑り落ちて久しい。年間販売台数首位のタイトル更新がトヨタのプライドであったカローラも今や・・・ああ、全てがなつかしい。

SUBARU 360

 1958(昭和33)年から1970(昭和45)年まで生産される。航空機技術を応用した軽量構造を採用し、限られたスペースで必要な居住性を確保、軽自動車としては史上初めて大人4人の乗車を可能とするとともに、当時の水準を超える走行性能を実現した日本最初の国民車。模範となったフォルクスワーゲン・タイプ1「かぶと虫」との対比から、「てんとう虫」の通称で親しまれた。

 1952(昭和27)年から1968(昭和43)年に廃止されるまでの17年間に「軽免許」が存在した。1949(昭和24)年に軽自動車規格が制定されると、それを運転するための「軽免許」枠が用意された。軽免許は16歳で取得でき、いわゆる「金の卵」(中卒労働者層)が、軽4輪を仕事で使えるようにした配慮であった。

 広告の「スクーターの免許で乗れる!」というのは、軽免許のことを言っているわけだが、軽免許で軽自動車を運転できるのは当たり前、ミスリードだろう、と思ってしまう。まあ、軽免許は250cc以下の軽二輪車も運転可能であったため、まともな量産軽自動車が出現するまでは、戦後あまた売り出された国産スクーターのための免許というのが巷の認識であったのだろう。

360ad01
 元航空機メーカーの技術者らが造っただけあって、ボディは当然のごとくフルモノコック。国産乗用車初であった。モノコックゆえ、ボディバリーションを広げる際の汎用性が低そうに思えるが、「コンバーチブル」の他、「ライトバン」まで追加し、フルラインをそろえている。(軽トラのサンバーはフレーム車)

360ad02
360ad03
 ホンダN360(31馬力)の登場で起こったハイパワー戦争には、スバルは360の出力を20馬力から25馬力まで上げて対応。さらにN360を凌駕する36馬力のヤングSSを追加する。(ヤングメン!スタート ユア エンジン)

360ad04
 スバル360は比較広告が面白かった。比較対象は畏れ多くもフォルクスワーゲン(笑)自らを「カブト虫」と名乗り、決して「テントウ虫」ではなかったことに注目したい。

360hikaku_ad01
 上の広告の主役はスバル360とはいえ、いささか縮尺はスバルびいきであるようだ。実際の大きさの比は以下の通り。

2cars
 少年誌に載せられた比較広告。16歳で免許が取れた当時、少年誌読者も決して遠くない先の顧客との認識だったのだろう。

 偶然だろうか?日独伊、枢軸国の車がそろい踏み。各車の評は、上から順に「日本でも走っているフォルクスワーゲンは国民車と言う意味。長年モデルチェンジしないから流行遅れになることもない」、「FIAT600Dは、流線をうまく取り入れたかっこいいデザイン。最高速110km/hでイタリアの町や村いたるところを走っている」(イタリアをデザインとスピードの国と看破。戦中のヒコーキ屋は決してイタリアの技術を侮らない)、「日本を・・・否、世界を代表するミニカー。モデルチェンジしない。気持ち良い乗り心地とスピード。西ドイツのやイタリアのにも負けていないと評判」・・・自画自賛過ぎる!?

360hikaku_ad02
 ここでも3車の中で一番小さいスバルが一番大きく描かれている。実際の縮尺は以下の通り。

3cars

 フォルクスワーゲンもフィアットもそうであったように、スバルもモータースポーツへの深い関わりがあった。

 ほとんどの自動車メーカーにとってレースは未知の世界という時代、1963(昭和38)年に第1回日本グランプリが行われた。富士重工も例外ではなく、手さぐりで始まったレース活動であったが、C-Iクラス(ツーリングカー400cc以下)にスバル360で、C-IIクラス(ツーリングカー401~700cc)にスバル450でワークス参戦することになった。

 レース当日ふたを開けてみると、C-IIクラスでは排気量の差でパブリカの壁は厚かった、といったところで、パブリカが1位から7位まで占める中、ようやく9位、10位に滑り込むという有様であった。スバルワークスは、この勝てない戦いにエースドライバー2名を使ってしまっていた。(C-IとC-IIにエースをダブルエントリーさせるという考えはなかったのだろうか?)

1963ngp_c2class

1963 C-II クラス:9周
 1位 #28 深谷 文郎   パブリカ  	32:49.9
 2位 #22 前川 義弘   パブリカ  	32:50.1
 3位 #21 細谷 四方洋 パブリカ  	32:50.3
 4位 #27 小谷 彰     パブリカ  	33:21.6
 5位 #29 R.ベーツ    パブリカ  	33:30.2
 6位 #26 牧野 俊彦   パブリカ  	33:30.4
 7位 #25 歌原 義和   パブリカ  	33:47.6
 8位 #24 D.ソーヤー  三菱500  	34:01.0
 9位 #30 大久保 力   スバル450 	34:24.2
10位 #31 小関 典幸   スバル450 	34:25.0

 さらに深刻だったのはC-Iクラスだった。格下と思われていたスズライトフロンテが1-2フィニッシュを飾り、3位のスバル360は7周で1分近い差を付けられた。すでに2輪の世界グランプリでレースのシビアさを熟知していたスズキは、本番直前まで実力を見せない戦略を採っていたため、スバルはスズキの速さを見誤っていたのだった。富士重工は中島飛行機本流の名門という驕りが、根拠のない自信を引き起こしていたのであろうか。

1963nihongp

1963 C-I クラス:7周
1位  #9	望月 修     スズライトフロンテ	28:05.6
2位 #12	藤田 晴久   スズライトフロンテ	28:06.0
3位  #5	村岡 三郎   スバル360		29:02.5
4位 #11	袴田 友三郎 スズライトフロンテ	29:02.7
5位  #7	小林 章尾   スバル360		29:03.2
6位  #6	渡辺 輝男   スバル360		29:03.5


 第1回の大敗は富士重工に火を付けた。その雪辱を晴らすべく、翌年の第2回日本グランプリに向け、社を挙げての必勝態勢が組まれることになった。参加クラスはC-Iに絞られ、万全の準備と必死の努力が行われた。その甲斐あって、第2回では、360はスタートからゴールまでトップを独走、1-2フィニッシュを果たした。(3位は昨年優勝の望月選手のスズライトフロンテであった。また4位と5位に新たにキャロルが入っている)優勝タイムが一気に4分以上短縮されていることに注目。

1964nihongp01

1964 C-I クラス:7周
1位  #9 大久保 力 スバル360		24:11.1
2位 #12 小関 典幸 スバル360		24:15.6
3位 #16 望月 修   スズライトフロンテ	24:23.8
4位  #3 片山 義美 キャロル360		24:23.8
5位  #6 小野 英男 キャロル360		24:24.5
6位 #19 藤田 晴久 スズライトフロンテ	24:27.0

 レースの結果が販売台数に直結したため、レース翌日の新聞紙面で大々的な戦果報告がなされた。

1964nihongp03

SUBARU SAMBER

 360のドライブトレーンを梯子形フレームのリアに搭載し、キャブオーバー型車体を架装した360の姉妹車。画像は1966(昭和41)年から1973(昭和48)年まで生産された2代目。

 リアエンジンによるトラクションの高さで支持を得、富士重工業の隠れたロングセラーとなった。スバルの軽乗用車が前輪駆動となった後もリアエンジン方式を維持する。

samber

SUBARU R-2

 1969(昭和44)年8月、360の後継車種として発売される。N360といった強力な他社競合車のため、発売後1年余りで販売台数が落ちみ、矢継ぎ早のマイナーチェンジでテコ入れしたものの、販売台数の回復には至らず、1973(昭和48)年2月のレックス4ドア発売と同時に生産を停止した。

SUBARU 1000 2door sedan

 1966(昭和41)年5月に富士重工初の小型車として発売された。FF、水平対向エンジン、センターピボット式ステアリングなどを採用した革新的な車両で、富士重工の自動車メーカーとしての基盤造りに大きく貢献した。アルファスッド、シトロエン・GSの開発にも多大の影響を与えている。

SUBARU 1000 Light van

DAIHATSU MIDGET MP

 ダイハツは戦前から続くオート3輪の上位メーカーであったが、1954(昭和29)年にトヨタが4輪トラック「トヨペット・SKB型」(後にトヨエースと命名)を廉価で世に出すと、3輪トラックのシェア低下が始まった。ダイハツは他社と同様に、普通車では4輪にシフトする一方、新たにオート3輪での軽自動車市場への参入を開始した。

1954skb
 1957(昭和32)年8月に発売されたダイハツ初の軽オート3輪、「ミゼット DKA型」は、バーハンドルで屋根は幌、ドアは付いていなかった。乗車定員は1名。エンジンは強制空冷2サイクル単気筒250ccで最高出力は8馬力、積載量は300kgであった。「街のヘリコプター」の愛称で売り出されると、ベストセラーとなった。他メーカーも追随し、軽オート三輪は一大ブームとなる。

 1959年、「DKA」とセル付の「DK2」は、ドアが付き、10馬力に強化されて積載量が350kgとなった「DSA」に置き換わる。荷台を箱にしたライトバン「DSV」、定員2名の「DSAP」とバリエーションが広がった。

dka
 1959(昭和34)年、キャビンを持ったMP型が、まず4月よりUS輸出向けにMPAという名称で売られ(ロッキードやボーイングの業務車として採用されている)、追って10月より国内でもMP2として販売が開始された。ハンドルは丸ハンドル、スチールルーフとキャンバストップを選べ、定員2名。エンジンはDSA譲りの250cc・10馬力であった。すぐに305cc・12馬力エンジンを搭載するMP3が登場する。

 翌1960(昭和35)年には全長を20cm伸ばし荷台のサイズを大きくしたMP4が、1962(昭和37)年には更に荷台を10cm伸ばし積載量を350kgへと拡大、混合燃料から分離給油となったMP5型が発売される。

 結局、軽枠でも4輪へのシフトが急速に進行し、ブームは短期間に終わる。その中でもミゼットは、1972(昭和47)年まで国内生産され続け、日本最後のオート三輪となった。累計33万6534台生産されたミゼットの約半数が東南アジア各国に輸出された。(1961(昭和36)年からパキスタンでノックダウン生産されている)

k360
 オート三輪メーカーとして業界トップの座をダイハツと争っていたマツダの K360は、ミゼットMPと同じ1959(昭和34)年デビューであることより、常にMPと比較される対象であった。紛らわしいほどに良く似たデザインは偶然だったのだろうか?ミゼットMPはパキスタンでCKDされたが、K360はミャンマーでCKDされた。K360のCKDは1990年代中ごろまで行われたため、ミャンマーでは現在も現役の車両が多数見られるという。

DAIHATSU Compagno

 1963(昭和38)年発売。オート三輪メーカー最大手のダイハツが、乗用車市場に進出した第一作。スタイリングはイタリアのカロッツェリア・ヴィニャーレの手による。

 1968(昭和43)年4月、最後のマイナーチェンジでフロントグリルが変更された。1969(昭和44)年4月、コンソルテにその座を譲り生産停止となる。

DAIHATSU Fellow

 初代は1966(昭和41)年から1970(昭和45)年まで生産された。既に軽貨物で十分な実績を持っていたダイハツの軽乗用車市場参入第1作であった。

 1967(昭和42)年に31馬力でデビューしたN360がもたらした軽のパワー競争には1968(昭和43)年、32馬力のSSを追加することで対応した。

fellow_ss

DAIHATSU HIJET

 画像のハイゼットは4代目で、1972(昭和47)年から1981(昭和56)年まで生産された。1976(昭和51)年4月には550ccエンジン搭載車が追加される。1980(昭和55)年4月に5代目に移行した後も、4代目360ccモデルは当時50万人ほどいた軽限定免許ユーザーに向け、翌1981(昭和56)年まで生産が続いた。

SUZUKI FRONTE Coupe

 1971(昭和46)年9月から1976(昭和51)年6月まで生産された。デザインはジョルジェット・ジウジアーロ。車高は1,190mm ~1,200mmと当時の軽自動車の中では最も低かった。デビュー当初は2シーターのみのラインナップであったが、市場の要望により後にリヤシートを追加した2+2が登場し、2シーターモデルはその後カタログから消滅した。

 エンジンは水冷2サイクル直列3気筒をRRで搭載。これに3連キャブが装着され、356ccの排気量から37馬力を発生した。

 6連メーターが装備され、右から、燃料計、速度計、回転計、水温計、電流計、時計と並んだ。時計はジムカーナ等のスポーツ走行にも使用できるタイマーブザー付き。最上級のGXには、さらに室内温度計、ムードランプ付きのオーバーヘッドコンソールが装備された。

 ジウジアーロによるフルサイズ・モックアップ、「スズキ・ベルリーナ・2ポルテ」(2ドアセダン)これがフロンテのデザインベースとなった。

1969_Suzuki_Microutilitaria_ItalDesign01
1969_Suzuki_Microutilitaria_ItalDesign02
1969_Suzuki_Microutilitaria_ItalDesign03

 実は、1968(昭和43)年にジウジアーロがベルトーネから独立して「イタル・デザイン」を設立した際、最初の顧客はスズキだった。スズキのためにデザインされた「プルミーノ」(小さなバン)は、1969(昭和44)年、4代目キャリイ・バンとして市販された。プルミーノは、ピラー傾斜角が前後対称であることを特徴としていたが、それが収容能力が劣る原因となり、市場の評価は芳しくなく、3年弱という短い生産期間と相成った。

13033638393_ec080abba9_z

SUZUKI ALTO WORKS

 画像は3代目(1988(昭和63)年~1994(平成5)年)3代目からワークスは独立車種として標準モデルとは異なるデザインになった。

MAZDA POTER CAB

 1969(昭和44)年3月から1976(昭和51)年4月まで生産された。

MITSUBISHI MINICAB

 1976(昭和51)年、3代目ミニキャブは、水冷直列2気筒エンジンを2サイクル359ccから4サイクル471ccに換装し登場した。1977(昭和52)年にボディサイズ拡大と546ccにエンジン排気量アップを行い、1984年まで生産される。

MITSUOKA BUBU

 新車・中古車販売業をしていた富山県の光岡自動車は、1982(昭和57)年2月、原付免許で運転が可能なゼロハンカー「BUBUシャトル」を発表する。その後、ゼロハンカーシリーズを展開していくが、現在の自動車製造業に参入する基礎となった。

FIAT 500

 1957(昭和32)年から1977(昭和52)年までの20年もの長期に渡り、通算約400万台が生産された。フォルクスワーゲン・タイプI、シトロエン2CV、BMCミニ、フィアット500からなる世界4大長寿モデルの一角をなす。

 1950年代当時のイタリアでは、スクーターが大衆の足として大きな成功を収めており、フィアットはスクーターの乗り換え需要を見込み、代替する安価な乗用車を投入することを決定する。(発売初期には、スクーターを高価下取りするという販売戦略で500への買い換えを促した)

 車名はトポリーノ(はつかねずみ)の愛称で親しまれた初代500を継承し、ヌーバ(新)500とし、主任技術者には初代500に関わっていたダンテ・ジアコーサが抜擢されたが、両車に技術的なつながりはない。500は、1955(昭和30)年から先行して発売されていたジアコーサによる600を一回り縮小したモデルとして企画され、全鋼製モノコック、RRなどメカニズムに多くの共通点を持つ。ただし、エンジンだけは、600の水冷直列4気筒では最廉価車には高コストと見なされ、空冷直列2気筒エンジンが採用された。

 独特の丸みで愛嬌あるボディは、少しでも軽く仕上げるために使用する鉄板を減らす必要性から生まれたとジアコーサは語っている。標準装備されたキャンバストップは、車内にこもってしまうエンジン騒音への対策であった。

 1965(昭和40)年、これまでの前開きドアを後ろ開きドアに変更し、新しい交通規則に対応した500Fを発売する。これに伴い、フロントウィンドウの大型化など大幅な変更がボディに加えられ、F型以降を後期型と区別する。

 1972(昭和47)年、後継の126が発売されたが、500はその下位モデルとして位置づけられ存続した。同じ年、126と同じエンジンが搭載された最終型500Rとなり、排気量は499.5ccから594ccへ、出力も18PSから23PSへ拡大された。

FIAT 500 – VTEC?

 この500、ホイールは無限NR-10だし、ZIP SPEEDのステッカーが貼ってある上、Do you have a HONDA? なんてあることからホンダのVTECをミッドに積んだ一連の500の一台と思われます。

PIAGGIO APE

 べスパの設計で著名なピアッジオ社の航空機設計技師、コラディーノ・ダスカニオは、1947(昭和22)年、べスパをベースにした3輪商用車アペを発表する。アペはイタリア語でミツバチの意で、べスパ(スズメバチ)に合わせた命名である。

 初期のアペはまさにべスパの後輪を2輪にして荷台をつけただけのものだった。エンジンはベスパ・オリジナルの98ccから125ccまで拡大して使用された。後に排気量が150ccのB型となった。

ape01
 1958(昭和33)年、アペは排気量150ccのままキャビンが設けられC型となった。これは画期的な改良でアペの基本フォーマットが確立された。以後、アペはボディデザインのマイナーチェンジを何度か受けながらも、現在も継続して販売されている。

ape02
 画像は1980(昭和55)年頃のP50でしょうか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です