2019/04/26 平成最後の筑波走行会

筑波は雨で寒い、寒い一日でした・・・

この日の朝、特記しておきたい一件がありました。長い余談となり恐縮です。

我々は走行会当日、早朝5時ごろには第3京浜川﨑口近くの店舗前を出発し、環八用賀口から首都高3号渋谷線に乗るのですが、いつもなら早朝であろうと混んでいる用賀口が、この日に限ってガラガラではありませんか!ご存知の方は多いと思われますが、3号線は東名高速とつながっているので、用賀口は3号線の起点(終点)であるにもかかわらず、東名から入ってきた車でごった返しているのです。

「10連休が始まる前日だからかなあ?」

3号線からは、中央環状(C2)、6号三郷線、常磐道の流れで筑波サーキットまで行くことが多いのですが、この日、C2でもトンネル内を我が物顔で走っている長距離トラックが見当たりませんでした。おかげで自分のペースを崩されることはなく、いつもなら2時間弱かかる往路が、決して飛ばすことなく1時間半もかかりませんでした。

その理由は・・・午前4時ごろ、世田谷区大蔵あたりの東名高速の跨道橋から人が飛び降りて、大事になっていたんですね。かなり特殊な事故と言えます。

その処理のため、午前4時55分から用賀・川﨑間が通行止めになっていたそうで、我々が3号線に入ったころ、ちょうど東名から流入する車両が無くなっていたわけです。当然のごとく東名では大渋滞の阿鼻叫喚だったそうで・・・

当日は残念ながら雨!
午後には止むかもしれない、という甘い観測をあざ笑うかのように、一日雨!

急いでレーシングレインに交換するPさん・・・

午前8時開始の第1回目から出走するPさん。他に誰も走る人はおらず、筑波サーキットを30分間一人で貸し切り状態でした。

いつも新作の自作パーツを持ち込まれるI川さんのレーシング・ビッグツイン。

今回の新作はこれのようです。

しかし!I川さんは最後までバイクをトランポから降ろすことすらありませんでした・・・

V4ひっさげて初参加のM永さん。自走で筑波まで来られましたが、残念ながら雨・・・

しかし果敢に走られておられました。

こう見えて大食漢のM永さん。朝食に、いったい何人分ですか!?という数の菓子パンを食べていました。(最初、みんなの分まで買ってきたかと思いましたよ!)

Mさんの御差し入れ。ネスプレッソ。

違いが分かる男。筑波の水で作ったコーヒーは美味い!!

天気ならMHRのU田さん、今日はCBXでご登場。

今回、初参加の珍バイク。(最後でご紹介いたします)

かなり高いシート高。

意外な人気で、わざわざ立ち止まってしげしげと眺めていく人多数でした。(最後で紹介するくらいですから、私も大好物です)

雨で時間を持て余す参加者のために、急遽、コントロールタワー内で行われた丸山選手、戸田選手のトークライブ。雨の日の実戦的走り方とか心構えとか、当時の全日本ライダーたちが何をどう考えて走っていたかが、面白おかしく分かりました。カメラを回されており、Youtubeかなにかのコンテンツとなるようです。

意外にも転倒者はいなかった模様。まあ、ほとんど走っている人がいませんでしたから・・・

当店からは11名エントリーで、1名DNA (到着せず)、2名DNS (出走せず)でした。これは他参加ショップと比べると、なかなかの高成績のはず。周りのピットは気づいた時にはもぬけの殻になっていましたから。

ひさびさに来た!珍バイク

なんだか分かりますか?

もうちょっと引くと、こんなんです。

さらに引いてみましょうか。

分かりましたか?

答はヤマハXV750E(改1000)です。

え?知らない?まさか・・・じゃあ、これ読んでみてください。

ファクトリーカスタムの時代

1976年にアメリカで企画され、アメリカで生産されたKZ900LTDは、「ファクトリー・カスタム」というトレンドを生み出しました。

1976 KAWASAKI KZ900LTD

「ファクトリー・カスタム」とは文字通り、メーカーの工場でカスタムが行われる様を言い、KZ900LTDはKZ900をベースに「クルーザー度」を高めるべく、前後18インチのスポークホイールを前18後16インチのモーリス製キャストホイールに変更したほか、プルバックハンドル、キング&クイーンシート、ジャーディン製マフラーを与え、スペシャルペイントを施した限定車でした。

KZ900LTDの登場はハーレーのウィリー・Gを刺激したとか、しないとか。1977年には、ハーレーのファクトリーカスタムというべき「ローライダー」が初めてリリースされています。

1977 Harley-Davidson FXS 1200 Low Rider

カワサキが拓いた「和製アメリカン」市場に国内他3メーカーも追随します。どのメーカーも最初のうちは、手持ちのスポーツバイクにプルバックハンドル、ダブルシート、リア16インチを与え、場合によっては直進性を高めるべくキャスター角を増やす程度だったのですが、まもなく販売競争は熾烈になり、専用Vツイン・エンジンを用意するまでに至ります。

ホンダ

ホンダの和製アメリカンは「カスタム」を名乗りました。既存の縦置きV2、横置き直4スポーツバイクを使って「カスタム」化した後・・・

1979 HONDA CX/GL500 Custom

1980 HONDA 750 Custom Exclusive

1982年、ついに狭角Vツインモデルを出してきました。ただし、絶対王者であったホンダは、ハーレーの市場を侵食するような大排気量は出さないという配慮がありました。(この頃、US政府は国内産業保護を理由に700㏄を超えるオートバイに45%という高関税を課していたため、この手のバイクは700㏄にスケールダウンして輸出されていました)

1982 HONDA NV750 Custom

ちなみに上のCX/GL500系OHV水冷80度Vツインエンジンは81、82年のワークス・ダートトラッカー、NS750に使われています。(ただし、クランク軸を90度回転して横置きにした上、チェーン駆動化、排気量拡大(750㏄)化されています)

またNV750系の水冷OHC45度Vツインは、83-88年のワークス・ダートトラッカー、RS750Dに使われています。(空冷&チェーン駆動化されています)

スズキ

スズキも同巧のクルーザーをリリース。末尾に付けられた「L」は「Luxury」の意でしょうか。

1979 SUZUKI GS1000L

遅れて出てきた750㏄版はGS750Gをベースとしたシャフトドライブ駆動でした。

1981 SUZUKI GS750GL

Vツインの「イントルーダー」は1985年に750㏄(米国では700㏄)で発売されました。その2年後にリリースされた1,400㏄版は物議を醸しました。ついに眠れる老獅子の首に噛みついたと。日本車らしい気配りで仕上げられた細部は、「ファクトリーカスタム」の真骨頂と言えました。

1987 SUZUKI VS1400 Intruder

カワサキ

限定車のKZ900LTDの成功に気を良くしたカワサキは、翌77年からKZ1000LTDをカタログモデルにしています。

1977 KAWASAKI KZ1000LTD

第2世代Z(Z1000J系)になってもLTDは設定されました。

1981 Kawasaki KZ1000LTD

排気量が1100㏄になった際に、ファイナルがチェーンからシャフトドライブに変更されます。豪華版の「スペクター」が先行リリースされ、翌年に通常版の「LTD」が世に出ています。

1982 Kawasaki Z1100Spectre

1983 Kawasaki Z1100LTD

1984年、ついにカワサキの直4クルーザーはVツインの「バルカン」にバトンタッチします。

1984 Kawasaki Vulcan 750

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ハーレーによる迎撃

80年代前半の日本製クルーザーの強襲に、手負いのハーレーは手をこまねいていたわけではありません。彼らは最廉価のスポーツスターに$3,995の値を付け対抗しています。そのXLX-61は、徹底的に装飾を省かれ、フォードのモデルTに倣ってか、色は黒のみの設定でした。

1983 Harley-Davidson XLX-61

広告コピーがふるっています。「Don’t let the special low price confess you, this is no foreign imitation.(特別な低価格だからといって、なにか裏があるわけではありません。これは海外から来たニセモノなんかではありません)」

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マッスルバイクという旋風

本題のヤマハに入る前に余談を挟まさせていただきます。

この和製アメリカン隆盛の中、異端児が生まれています。大パワーを誇示したクルーザー、「マッスルバイク」です。どの車両もパワーを出すために、1000㏄以上の大排気量、水冷、4気筒、DOHC4バルブヘッドのエンジンを持っていました。

80年代の半ばに4メーカーすべてがマッスルバイクをカタログに並べ、覇を競うことになるのですが、その端緒がホンダ・マグナでした。先に750版(V45)が、追って1100㏄版(V65)が送り出されています。

1983 HONDA V65 Magna

マグナを追って登場したマデュラは、わずか2年で生産中止の憂い目に遭っています。スズキが新たに用意した水冷V4エンジンは、700ccと1,200㏄がマデュラに使われ(750㏄版は存在していません)、1,400㏄が、フルドレスツアラー、カバルケイドに使われています。

1985 SUZUKI CV1200 Madura

言わずと知れたVmaxは最も成功したマッスルバイクでしょう。

1985 YAMAHA VMX12 Vmax

エリミネーターは、4メーカー中、唯一直4エンジンでした。KZ1300のエンジンで出せば、もっと売れたかもしれません。

1985 Kawasaki ZL900 Eliminator

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ヤマハ

ヤマハは自社のファクトリーカスタムを「スペシャル」と呼びました。処女作はTX650をベースにした「XS650スペシャル」です。

1978 XS650 Special

XS650スペシャルはスマッシュヒットとなり、「和製アメリカン」ブームを牽引したものの、後継モデルは同巧を潔しとせず、国産メーカー初のVツイン・エンジンを用意しました。

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1981 XV750 Special

国内向けは「スペシャル」を名乗り・・・

1981 XV750 Virago

主戦場となるUS向けは「ビラーゴ」を名乗りました。

新型Vツインのヘッドはヤマハ得意のSOHC・2バルブ。

挟み角は異例の75度を採用。コンロッドはサイド・バイ・サイド方式を採用したため、285度-435度の不等間爆発でした。これは「ビッグバン」エンジンの先駆けといえましょう(笑)。

フレームも異例のプレスバックボーンフレームを採用。Fシリンダーヘッドとクランクケース後端がフレームに結合されており、エンジンも車体の剛性要素の一部を担っています。そのため、シリンダーのヘッド間にメタルタイプの特殊なガスケットを使い、剛性が保たれるようにしています。

この頃のヤマハはチェーンをあまり信頼しておらず、シャフトドライブを採用。リアサスはカンチレバー式(モノクロス・リアサスペンション)

1981 XV1000TR1

ヨーロッパ向けは、ストローク69.2㎜はそのままで、ボアを83㎜から12㎜も拡大し95㎜とした980㏄の排気量を持つロードスポーツでした。

駆動方式はシャフトではなくチェーンを採用していました。ヤマハは当時のチェーンの品質を信用しておらず、チェーンを独自開発のグリス封入式ケースに閉じ込めています。

ヤマハは大排気量の空冷Vツインのリアバンクの冷却に苦労し、リアバンクの発熱状態を観測するために赤外線サーモグラフィを購入しています。

テストの末に、右サイドカバーの前端に付けられた導風板(Rのついた黒い部分)は、簡単な構造ながらリアバンクの冷却に高い効果をもたらすものでした。

1981 XV920R

US向けモデル。ヨーロッパ向けTR1のストロークはそのままに、ボア95mmを92mmまで縮小し、920㏄としたもの。外観上ではサイドカバーのデザインが異なります。駆動方式はTR1と同じチェーン駆動でした。

USでのXV920Rの販売は、1981年と82年の2年間で終わってしまいます。カラー設定は81年モデルがメタリックレッドのみ、82年モデルはシルバーのみでした。

1981 XV920 Virago

US向けモデル。ビラーゴの920㏄版。750㏄はクルーザーとしてオーソドックスな外観を持っていましたが、920㏄は高い位置に付けられた角型ヘッドライトの他、可変式セパレートハンドルなど、攻めたデザインが与えられていました。

さらに、世界初のオートバイ用液晶メーター「サイコム」が装着されていたことは特筆に値します。

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1982 XV750E

Eはヨーロッパの意の通り、ヨーロッパ向けの1,000㏄を日本向けに国内自主規制値750㏄としたモデル。

1982 XV1000R

国内およびUS向けは1代限りで終わってしまいましたが、ヨーロッパ向けはマイナーチェンジされ、評判の悪かったテールカウルのデザインが変更されています。

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XV1000/750 Virago

バックボーンフレームをプレス製から鋼管製に改め、リアサスもモノサスから2本サスとするなど、ヤマハらしい技術的提案を引っ込め、メッキの多用といった豪華さを追求したモデルへと大幅な方向転換をしています。

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1984 XV1000SE

人気のミッドナイトスペシャル・バージョン。

あまりの人気で、なんでもミッドナイトスペシャルになった時代でした。

1981 QA50LTD – Pokke Midnight

広告の中のXV750

BOTT Racers

1984 XV920R “Lurch”

AMAのBOTT参戦のために1982年式XV920Rから作られたレーサーで、「ルーク」と呼ばれていました。(アダムスファミリーのキャラクターが由来とのこと)。

製作者兼ライダーはテキサス出身の「ヴァーノン・デイビス」。

実は、「ケヴィン・シュワンツ」が初めてAMAスーパーバイクを走ったマシンがルークでした。1984年当時、20歳のシュワンツは、FJ600に乗る無名だが有望な若手で、ヴァーノン・デイビスと同郷だった縁でルークのライダーに抜擢されました。スーパーバイクがアマチュアイベントだった時代はすでに終わっており、BOTTマシンを参戦させたのはちょっとした茶目っ気ゆえだったのでしょう。

とはいえ、ルークが走ったラグナセカはストレートがさほど長くなく、ルークに向いたコースでありました。シュワンツは予選5位となり、ピットを沸かせました。本戦ではコンロッドのベアリングトラブルを起こし戦線を離脱するまでは、6位ないし7位に着けていました。ベースマシンの素性を考えると驚異と言える成果でした。

2列目左端(1列目左から1番目と2番目の間)を陣取るシュワンツとルーク。

6番目を走るシュワンツとルーク。

1987年

その後、ルークはモノコック式のバックボーンフレーム、スイングアームを得て、別物になっています。

1988年

手に入る画像の中で一番新しい仕様。いつ頃のものかは不明。

1982年 XV920R

1982年のBOTT、ストックプロダクションクラスでチャンピオンとなったのがクリス・スチュワードとXV920。彼のXVがどれほどまでにストックのままであったかという逸話に、彼がシアーズポイントのレースでクラッシュした際、オフィシャルは彼がコース脇に落とした純正工具キットを拾って、ピットまで届けに来たというものがあります。

1982-83 XV920R

デビッド・アルダナはボブワーク・ヤマハのマシンでBOTTを走っています。TZ用足回りとワスコ・フレームを持つこのマシンのエンジンのチューン度も高いものでした。

1982年のレース。このときはカムチェーンのトラブルでリタイヤ。

1983年のラグナセカでは序盤はレースをリードしたものの、エンジンブローでリタイヤ。


1989/1990 EGLI YAMAHA

ドイツ国内のBOTTを「クラウス・キャスパー」が走らせたエグリフレーム+TR1エンジンのレーサー。

Artur Baumann’s TR1

Flat Track Racers

1981-82 Roberts-Lawwill Racing

1981年、ヤマハのバックアップを受けた「ロバーツ・ローウィル・レーシング」がAMAのグランドナショナル選手権に参戦を開始します。現役のGPライダーだった「ケニー・ロバーツ」のチームへの直接の参加はなかったものの、「マート・ローウィル」がフレーム、「ディック・マン」がサスペンション、「マイク・リビー」と「C・R・アクステル」がエンジンの開発を担当し、「バド・アクスランド」がフィールド・メカニックを率いるというドリームチームでありました。

ライダーはベテランの「マイク・キッド(左)」と、新進気鋭のルーキー、「ジミー・フィリス(右)」のコンビ。真ん中は伝説的レーサーでチームの共同オーナー、「マート・ローウィル」。

#72 Mike Kidd

#17z Jimmy Filice

エンジンはビラーゴ譲りの750㏄。(厳密にいえば、US仕様では920㏄版がチェーン駆動で750㏄版はシャフトドライブ駆動でしたので、日本仕様のXV750Eのエンジンがベースになったことになります)キャブはデロルトΦ38が採用され、出力はXR750と同等の80馬力。特筆すべきは耐久性で、100レースほどOH無しで使用できることを謳っておりました。(ヤマハはこのレーシングエンジンを市販する予定であったので、耐久性=ランニングコストは重要でした)

しかし開発は遅れに遅れます。特にXV750特有のエンジン構造から生じる車体特性が問題とされました。XVのトランスミッションは、チェーンとシャフトのどちらでも出力を取れるように1軸追加され、3軸となっています。この場合、必然的にクランクシャフトは2軸のエンジンとは逆回転(タイヤの回転とは逆)となります。

キッドは「コーナーを抜けた後のアクセルオンで車体がもち上がるような挙動を感じる・・・微々たる程度かもしれないが、XR750と比べればトラクション特性が優れていない」旨を見過ごせない問題として挙げていました。

XV750の競争力がいつまでたって上がらないことに業を煮やしたキッドは、例外的にローウィルが個人的に所有するXR750でレースを出ることが許されます。このことでキッドは、契約金をもらったメーカーとは別のメーカーのバイクでレースを走ったAMA唯一のライダーとして歴史に名を残すことになりました。

キッドはショートコースでは(Vツイン以外の)ヤマハに乗ったものの、

パワーが必要なロングコースでXR750に乗っています。

その甲斐あって、キッドは1981年AMAグランドナショナル選手権チャンピオンの座を得ています。

(実のところ、キッドがこの年のチャンピオンとなる線は濃厚で、ヤマハに、デビュー年即チャンピオンという栄誉を与えるためにチームに引っ張られてきたのでしょう。しかし、フタを開けてみるとヤマハが予想以上にダメで、そのためにみすみすチャンピオンを逃すのは馬鹿らしい、という判断が本人にも周囲にもなされ、この「超法規的措置」が下されたのでしょう)

困難なXV750の開発は、必然的に駆け出しのジミー・フィリスがその大半を担うことになりました。

そのような重責の中、ジミーはルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得し、ロードレース(AMA 250ccグランプリ)では、エディ・ローソンに次ぐ2位となっています。

最初のシーズンが終わって、メイン・スポンサーのラングラー・ジーンズが出した全面広告。車両開発は散々でしたが、ライダー面では予定通りの成果が出たと言えるのでしょう。

1982年シーズン、チャンピオンとなったキッドはホンダに移籍してしまい、チームに在籍するライダーは若干19歳のジミー・フィリス一人となってしまいました。さらにラングラーがスポンサーから手を引き、バイクはインターカラーになりました。マフラーの取り回し、フレーム形状が昨年型とはまったく異なる形状になっていることが分かります。

ジミーは7月のインディ・マイルレースでクラッシュし、手首にケガを負ったため、残りのダートレースへの参加を見送ります。自分はダートよりもロードの方が向いていると判断したジミーは、ロードレースに注力し、250ccグランプリでは昨年の総合2位に続き、僅差で総合3位を得ています。その後のジミー・フィリスのロードレーサーとしての活躍はまた別の話となります。

ヤマハは、1982年シーズン終了をもって、チームのバックアップから撤退することを決定します。市販XR750エンジンが$5,000していた中、ヤマハは、$2,000以下でダートトラックレース用エンジンを販売する計画がありました。すでに75基ものエンジンが出荷されていましたが、この撤退の決定をもって、すべての投資は収穫なく終わってしまいました。

1982 Paris Dakar

オランダの「トン・ヴァン・ヒューフテン」と「フリッツ・キッゲン」は英国のワスプ製シャーシにTR1エンジンを積んだサイドカーで、1982年の第4回パリダカールラリーに参戦しています。過酷で知られたラリーのこの年の完走率は25%でしたが、結果は例に漏れずリタイヤでありました。





XV engine on a specail frame

意外にたくさん存在するのですが、厳選してご紹介いたします。

YACATI

YAMAHA + DUCATIから。TRXのことではありません。

ダーマのフレームにTR1のエンジンを積んだマシン。ハンドリングが改善されているようは思えません・・・

上と同巧の組み合わせをオフローダーに仕立て上げたもの。

900SSのフレームに搭載。意外にしっくりとハマっています。

YAMTON

ノートンのフェザーベッドフレームにTR1のエンジンを搭載。同巧のバイクは数多存在します。

Yamazuki Katrago

ヤマハ・ビラーゴとスズキ・カタナの組み合わせでヤマズキ・カタラーゴ。実のところ、チェーン駆動なのでビラーゴではなく、XV920ないし1000のエンジンなんでしょうが、語呂の良さからビラーゴとしたのでしょう。

F.C. LeRoy TR1

「フランク・クリンス・レロワ」によるプライベートレーサー。オリジナルフレームと斬新なデザインのカウルを持ちます。



メインパイプがステム部とアクスルピボットを一直線でつなぐという完成度の高いオリジナルフレームを持つ詳細不明のレーサー。

オリジナルのトラスフレームを持つ詳細不明のレーサー。

オリジナルのアルミフレームを持つ詳細不明のレーサー。

Drag Racer

TR1-R Skinny Beast

公道を封鎖して行われる欧州最大のオートバイイベント「グレムセック 101」。そのメインイベントが1/8マイル(200m)ドラッグレースです。

2014年と2015年の「クラシック&インターナショナル・クラス」でチャンピオンとなったのはこのマシン。(2016年はクラッチトラブルでリタイヤ)

TR1 Record Breaker

詳細不明ですが、ソルトレイク・ボンネビルの最高速度チャレンジでTR1エンジンを使って記録に挑んだマシンです。

1915 Nieuport 12 Replica

第一次大戦中の1915年、元号でいえば大正4年にフランスはニューポールで造られた戦闘機のレプリカにXV1000のエンジンが使われています。

オリジナルは110馬力程度の出力を持った15リッター単列星型9気筒エンジンでした。XVエンジンの出力はそれより多少低いのですが、出力特性が安定している上、小さく軽いので、機体のパフォーマンスはオリジナルを上回ると思われます。

余談ですが、当時の星型エンジンは冷却のため、クランクエンドを機体に固定し、シリンダー&クランクケースを回転させていました。回転モーメントの影響から操縦性にかなりのクセがあったとのこと。

1982 John Reed’s Virago

当時のヤマハ広報誌(英語版)でも紹介された「ジョン・リード」によるカスタム・ビラーゴ。現在ではほとんど見られなくなった彫金加工が素晴らしい。




カタカナ – Japanese syllabaries

西ドイツ(当時)のXVマニアが着るTシャツの柄に注目。ガイジンが選ぶ日本語フォントって、必ずって言っていいほどセンスがイマイチなんだよねえ。

西ドイツの雑誌から。「工具が自分時間」、言いたいことは分からなくもないですが、「が」の向きを誤認しているおそれもあり・・・

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